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月読み5 (太陰太陽暦・陰陽暦の解説5) 
   
                月読み5


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▲は

▲は・・・・・

▲バイオリズム・・・・・・生体波動の事。地球も一つの生命体ですから津波や地震も月のバイオリズムに左右される。
月の波が潮の満ち干や諸生物の生体の活動も支配する。各個人の身体や感情は各々別個の筈ですが、矢張り月の
波に個別に左右されるのでバイオリズムが占いとしても利用されている。

無論、交通事故もこのウェーブに左右されて増減する(前頁の「月の波」(周期)、及びヒジリの「周期律」を参照)。

権主義・・・・・・拡張主義。月世界に特有の農法は稲作農法であり、其れは多人数と農地の広さを必要とするの
で当然にして人海戦術と覇権主義となる。現中国政府の場合も、チベットも新疆ウイグルも台湾もみな中国の領土だと
言う。此れが月世界の特徴の縄張り拡張主義であり、この点で日本の官僚社会も宗教団体も似ている。

何れも農家の月の因縁を持って此の縄張りを守ります。

白道・・・・・月の通り道。略天の黄道に近い所を通る。

パゴダ・・・・・西欧各国語では広く仏塔を指すが、ビルマでは塔婆の事である。ミャンマーの砂漠地帯の夜空は満点
の空に星がきらめく。その近くにあるパガン村には現在、レンガ造りのパゴダが約三千基ある。此れは権力誇示のた
め奴隷を使役して約200年間掛けて千年前に作られた、とされ、大きなものは高さ約50mもある。

中には10m大の釈迦の涅槃像や仏像などが安置されており、中でも日本の国会議事堂に似た形のパゴダもあるとか
(2004/1/17、NHKラジオ第一より引用)。所で日本の東大寺・大仏殿とパゴダでは、どちらが古いのかな。

八朔(ハッサク)・・・・・京都祇園の舞妓さんたちは、西暦の8/1日には師匠の所に挨拶廻りに出かけるが、農家で
は旧暦8/1に其の年の新穀を収めて、餅を作り「田のみの節句」をして祝って来た。八朔は旧暦行事ですから舞妓さ
んたちが西暦でするのは約一ヶ月先走りの形とも見えるが実は正解である(「夏越し祓い」に当たる)。

この行事の起源は恐らく仏教の影響であり、例えば元正天皇の養老五年秋七月四日に「始めて令す。六月十二月の
晦日の大祓い」の処に「文武百官に妻女姉妹を率いて会せよ」とした。ユリウスの時にして721/8/1己酉の日でし
た。

つまり此れが大祓いに関する初見であり、言わば八朔の起源でもあるとすれば、伝統を守る京都の風習として此れが
朝廷ではなくて実は花街で守られて来た事になる。無論、関西一帯や東北地方でも八朔の意味が謎のまま色々変化し
て続けられて来た。元の意味から言えば一年を二分する時節の歳末と、逆の夏季の「大祓い」でした。

其れが渡来の仏教による暦法の八月のツイタチとする行事になって、旧正月とお盆の前に行われるようになった。文
献上の八朔の起源としては後嵯峨天皇の皇太子時代に近臣が「田の実」を献じた事が見える。以来、宮中の嘉例とな
り、また武士も農村でも主従関係を確認する節目の挨拶や行事となったったもの。

ただ仏教式の暦行事が明治のカトリック式への改暦で更に意味不明にされたが、寺社の中には旧暦の七夕祭りや旧
盆を前に敢えて「大祓い」を西暦の7/31に行って、大阪では「八朔盆」、そして旧盆・月遅れの盆に繋げている所もあ
る。因みに逆の時期の歳末・初春の西暦の1/31が八朔の裏正面に当たる。

つまり此れが「師走の大祓い」の日であるが、毎月29か晦日で終わる旧暦行事を明治の改暦に際してそのまま数字
だけスライドしたため何処の寺社でもこの日は何もしない。

或いは2/1を正月の締め括りとして新たな二月に入る意気込みを示すために「大祓い」を既に歳末に済ませ、もしくは
2/3の節分を兼ねて行い、此れに前後する旧正月に繋げていたようである。

▲直会(なおらえ)・・・・・・祭りの後で、神前にお供えしたものを撤下して、其れを神饌(お下がり、撤下品)として互いに
分け合い、神の前で神の気が入った品を人々が共に和気藹々と戴く食事、またはお神酒であり、此れを「神人共食」と
も言う。


★パレスチナ・・・・・別記の「ヒジリ」へ。

▲半月・・・・・米国ではバイオタイド(生物学的潮汐)理論として、「月の引力によって、人間の体内水分に潮汐作用が
働き、行動感情に影響する」と言う。

其れに関して日本では、92年には兵庫県警交通企画課が、交通事故との関係を分析して「緊張が緩む半月の頃は、
うっかり事故が増える」として話題となった(「新月」は放火事件の増加---前頁の「月の波」(周期)を参照)。

▲ひ

毘沙門天・・・・・ギリシャ神話のヘルメス。仏教では北方を守る守護神・多聞天(バイーシュラバナ)。インド神話
のマハーバーラタには彼の物語が綴られている。インドでは外にも暗黒界に住む悪霊の長とされ、またヒンズー教では
クーベラと言う財宝福徳を司る神となり、仏教では梵天・帝釈天と共に仏法守護神として信仰される(アラーを参照)。

日本では先ず聖徳太子が信貴山に此の毘沙門天を祀った。信貴山の朝護孫子寺は金剛山頂の転法輪寺・葛木神社
と子午の位置関係になっている。聖徳太子は蘇我氏と結んで物部氏を滅ぼす為に小さな四天王像を髪の中に入れて
戦った。そして勝利後に摂津の玉造に四天王寺を建立した。今の天王寺ではなくて森之宮だった。

トモアレ四天王の一人が此の毘沙門天である。所が日本最古の毘沙門天と言う寺が高槻市の根本山・神峰山(かぶさ
ん)寺である。此処でも毘沙門天を戦いの神としている。鎧兜に身を固めた姿は仏像と言うよりも確かにモンゴル兵の
ような武人像である。

此の神峰山(かぶさん)寺の対極・子午線上には旧大和川が流れていて広い湿原だったろうから遺跡は少ないが、南
端には羽曳野市の伝・応神天皇陵がある。そして大阪の北に亀岡市がある。亀岡市千歳町には毘沙門地区があり、
曹洞宗・神応寺には毘沙門天を祀っている。

昔、牛松山山麓百足山に天下られた毘沙門天を、村人がお祭りして信仰したことから、村名を毘沙門村と呼ぶようにな
り、何時の頃からか国分寺の守護神とされるようになった。現在は神応寺境内に毘沙門堂が建立され、毘沙門天像を
安置していて毎年正月最初の寅の日に行う行事を「初寅さん」と呼んで福寿を求め多数の参拝者で賑わっている。

(「神応寺」以下、http://www.city.kameoka.kyoto.jp/machi/titose/index.htmlより引用)。此の神応寺の子午の位置に
は羽曳野市の野中寺がある。此の寺は別名「中の太子」と呼ばれて来た太子創建の寺で、かつて法隆寺式の大伽藍
を構えた名刹(律宗・真言)だが、此の毘沙門天の位置関係が分かれば「中の太子」の謎が解ける。

6世紀初めの飛鳥時代にわが国へ伝来した仏教をめぐって、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立していた。
用明天皇の没後の用明天皇2年(587)崇仏派の蘇我馬子は、ここ河内の渋川の館に逃れていた排仏派の物部守屋
を攻めた。仏教に帰依する聖徳太子は、この戦いで崇仏派の蘇我氏側についた。

太子はこの戦いにあたって白膠木(ぬるで)の木に自ら四天王像を刻んで戦勝を祈願し、戦いの四天王とも言われた
蘇我馬子に持国天、秦河勝(はたのかわかつ)に多聞天、迹見赤梼(とみのいちひ)に広目天、小野妹子に増長天を
与え、それぞれの頭髪の中に入れて戦わせ勝利した。

物部氏を討つことができた聖徳太子は、戦勝を感謝し難波に四天王寺を建立したことは日本書紀でよく知られている
が、この戦いの主戦場となった河内の八尾にも一寺を建てた。後に推古天皇から神妙椋樹山大聖勝軍寺(しんみょう
りょうじゅたいせいしょうぐんじ)の山号を賜った。

大阪・太子町の叡福寺を「上ノ太子」、羽曳野市の野中寺を「中ノ太子」、大聖勝軍寺を「下ノ太子」と呼び、いずれも聖
徳太子が創建した古刹である。大聖勝軍寺には聖徳太子16歳植髪像や戦勝のご利益を預かった四天王像が安置さ
れている。

境内の神妙椋(しんみょうむく)の老樹は、戦いの最中に身が危うくなった太子が木のそばに寄ると幹が割れて開き、
太子の身をかくまい戦勝に導いたと伝えられている。大聖勝軍寺境内や寺の周辺にはこの戦いの史跡が多い。寺の
門前に「守屋池」と呼ばれる小さな池がある。

迹見赤梼が放った鏑矢(かぶらや)で倒れた守屋の首を、秦河勝が取って洗ったと言う池で、俗に「守屋首洗池」と言
う。寺の東、八尾市立病院の正面の国道25線に面した所には物部守屋を葬った「物部守屋大連墳」と記された碑が
立っている守屋の墓がある。

市立病院西側には、守屋を射た鏑矢が落ちた所にその矢を埋めた「鏑矢塚」、この鏑矢を放った弓を埋めた「弓代塚
(ゆみしろづか)」が、すぐそばの竜華中学校南側にあり、いずれも石碑が立てられている(以下はhttp://osaka.qlep.
com/search/blog_detail.php?muid=152419&mid=53778より引用)。

「中の太子」の意味は南北間の中の意味もあった。と言うのは更に子午線の最南端の河内長野の鬼住地区に延命寺
があるからです。此の山間部には幕末まで多聞院ほか48社寺が栄えていたが、今は護摩堂の本尊として毘沙門天が
祀られている。寺伝によれば此れが先の楠公の念持仏とされていて毎月1日と15日が本尊護摩供である。

さて太子の頃から毘沙門天は戦いの神、鎮護国家の神として信仰され、全国各地に国分寺が建立されると共に伝播し
た。中世には武神として武士の特に南朝の忠臣となった先の楠正成の母が信貴山を信仰して寅の日、寅の刻に正成
を産み、よって彼の幼名を多門丸とした。また名将・上杉謙信も毘沙門天を信仰して「毘」の字を旗印とした。

以来室町時代から七福神の1つとして庶民信仰に根付いて来た。マントラはナウマク・サマンダボダナン・ベイシラマン
ダヤ・ソワカ。此の呪言を唱えて道を歩けば災難にあう事もなく通常よりも遥かに早いスピードで歩く事が出来ると言
い、またある種の木の煮汁と黄土を捏ねて七つの人形を作り、其の胸の所に敵の名前を書いた札を貼る。

そうして七日間の内に一体づつ火中に投じて行く。すると敵は悶絶してしまうと言う。こうして怨敵調伏の呪術に利用さ
れて来た(此の部分は「密教の本」学研より引用)。だが古来、「敵を呪えば穴二つ」と戒めて来た。呪えば先ず自分が
危なくなるのです。

此れは脅しではない。その後、聖徳太子一族も蘇我氏の一族も相次いで全滅した事は歴史的事実である。因みに4人
の関係者について次に引用する。先ず

蘇我馬子http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90 出典: フリー百科事典『ウィキペ
ディア(Wikipedia)』蘇我 馬子(欽明天皇13年(551年)? - 推古天皇34年5月20日(626年6月19日))は飛鳥時代の政
治家。「馬子」であるが男性である(当時は「子」の字が男女問わずに用いられた)。

邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天
皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く。

生年は不詳であるが、名前の「馬子」は午年生まれであることに因むと考えられること、『公卿補任』に「在官五十五年」
とあることから、550年の庚午年前後であろうと推定されている。父は蘇我稲目。 姉に蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)、『日
本書紀』では妹に蘇我小姉君(欽明天皇妃。なお『古事記』では「小兄比売」は堅塩媛のおばとされる)。

妻は『日本書紀』では物部弓削大連(物部守屋)の妹、『紀氏家牒』・『石上振神宮略抄』神主布留宿禰系譜料では物部
守屋妹の「太媛」、『先代旧事本紀』天孫本紀では物部鎌足姫大刀自(父は物部守屋の異母弟石上贄古大連、母は物
部守屋同母妹の布都姫)とある。

子に蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂は孫。 また、娘に河上娘(崇峻天皇妃)、法
提郎女(田村皇子妃)、刀自古郎女(とじこのいらつめ)(聖徳太子妃)など、外戚となって権力をふるった。敏達天皇元
年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる。

敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい
受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出し
た。

馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼
を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。敏達天皇14年
(585年)2月、馬子は病になり、卜者に占わせたところ父の稲目のときに仏像が破棄された祟りであると言う。

馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派
の物部守屋と中臣勝海が蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は
寺に赴き、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。

守屋は馬子ら仏法信者を面罵して、三人の尼を差し出すよう命じた。馬子は泣き悲しみながら尼を差し出し、守屋は尼
の衣をはぎとって縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病に伏した。人々は仏像を焼い
た罪であると言い合った。同年6月、馬子も病が癒えず奏上して仏法を祀る許可を求めた。

敏達天皇は馬子ひとりのみこれを許し三尼を返した。馬子は三尼を拝し、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。同
年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いを罵倒しあった。敏達天皇の後は橘豊日皇子(欽
明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位した。用明天皇である。

用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位を欲しており、大いに不満であった。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝の寵臣
の三輪逆を殺させた。用明天皇2年(587年)4月、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮っ
た。守屋と中臣勝海はこれに反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。

守屋は大いに怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。ほどなく、用明天皇が崩御し
た。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂
部皇子を誅殺した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決めて、諸皇子、諸豪族の大軍を発した。

馬子の軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子
の軍を三度撃退した。廐戸皇子が四天王像を彫り戦勝を祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を弘通させることを誓っ
た。馬子の軍は奮い立って攻め立て、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。

同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させた。崇峻天皇である。炊屋姫は皇太后となった。崇峻天皇元年(588年)馬子
は善信尼らを学問をさせるため百済へ派遣した。崇峻天皇4年(591年)崇峻天皇は馬子と諮り、任那回復のため2万
の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ使わせた。

政治の実権は馬子にあり、崇峻天皇は大いに不満であった。崇峻天皇5年(592年)10月、天皇へ猪が献上された。崇
峻天皇は猪を指して「何時か猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と言った。そうして、普通にない
多数の兵を召した。馬子は崇峻天皇の言葉を知り、天皇を謀殺することを決意する。

同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢直駒に崇峻天皇を弑させた。東漢直駒は馬子の娘の河上娘を奪
って妻とした。怒った馬子は東漢直駒を殺させた。馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させた。史上初の女帝の推古
天皇である。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。

馬子は聖徳太子と合議して政を執り、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を推し進め、遣
隋使を派遣して隋の優れた制度、学問を輸入した。推古天皇4年(596年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立し
た。推古天皇20年(612年)堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を盛大にとり行った。

堅塩媛は皇太夫人と尊称され、諸皇子、群臣が誅した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。推古天皇28年(620年)聖徳太
子と共に天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。

推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した。馬子は太子と協調していたが、一方で太子の進めていた天皇権の強化
は大豪族の蘇我氏にとって警戒すべきものだった。推古天皇31年(623年)新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩
侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢してきた。

推古天皇32年(624年)馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求した。
推古天皇は「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の求めはなんでも聞き入れてきたが、これだけは聞き入
れられない」と拒否された。

推古天皇34年(626年)馬子は死去した。馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳のことだと
する説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡についても邸宅の一角だったとする説がある。
次は

迹見赤檮http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B9%E8%A6%8B%E8%B5%A4%E6%AA%AE 出典: フリー百科事典『ウィキ
ペディア(Wikipedia)』迹見赤檮(とみのいちい、生没年不詳)は飛鳥時代の舎人。長髄彦の子孫と伝わる。彦人皇子の
舎人(または聖徳太子の舎人)。

仏教の受容を巡って、崇仏派の大臣の蘇我馬子と排仏派の大連の物部守屋、神祇を司る氏族の中臣勝海は激しく対
立していた。これに皇位継承の問題が絡み守屋と勝海は穴穂部皇子を支持していた。用明天皇2年(587年)4月、用明
天皇は重い病に伏した。天皇は三宝(仏法)を信仰することを欲して群臣に諮った。

守屋と勝海は強く反対したが、馬子は詔を奉ずべしとして、穴穂部皇子に豊国法師を内裏に引き入れさせた。守屋は
激怒したが群臣の多くが敵である事を知り、河内国の本拠へ退いた。勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の
像をつくり呪詛した。

しかし、状況が不利であることを知り、にわかに彦人皇子の水派宮に行き帰服した(一説には非蘇我氏系皇族である
彦人皇子の即位を馬子が本心では望んでいないと考えた勝海が皇子の自派引き入れを策したのだともいう)。赤檮は
勝海が宮から退出して帰宅するのを待ち伏せ、これを斬った。

(『聖徳太子伝暦』では、馬子の命を受けていたとある)やがて、用明天皇は崩御。守屋は穴穂部皇子を皇位に就けよ
うと画策したが、馬子が先手を打って穴穂部を殺した。同年7月、馬子は群臣と諮って物部討伐を決め、諸皇子、諸豪
族の大軍を起こして守屋の本拠河内国渋川郡へ向かった。

軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築き頑強に抵抗し、守屋は朴の枝に登って雨のように矢を射かけた。討伐軍
は3度撃退されてしまう。従軍していた厩戸は四天王像を刻んで戦勝を祈った。討伐軍は奮い立って攻め立てた。赤檮
は守屋のいる大木の下に忍び寄り、守屋を射落とした。

(『伝暦』では、厩戸皇子が四天王の祈願を込めた矢を赤檮に与えたとされる)。物部氏の軍勢は逃げ散った。戦後、
殊勲者の赤檮は物部氏の遺領から一万田を賜った。"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B9%E8%A6%8B%E8%B5%
A4%E6%AA%AE" より作成。

小野妹子http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』小野妹子(生没年不詳)は、飛鳥時代の政治家。「妹子」であるが男性である(当時は「子」が男女問わず
に用いられた)。姓は臣。子に小野毛人。隋では蘇因高と呼ばれる。

近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族小野氏の出身。『日本書紀』によれば、推古15年(607年)、推古天皇の摂政を務
めていた聖徳太子の命により、第2回遣隋使として鞍作福利らと中国の隋に渡る。

推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国、ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失し、一時は流刑に処され
るが、恩赦されて大徳に昇進。 翌年には隋への返書と裴世清の帰国のため、第3回遣隋使として高向玄理、南淵請
安、旻らと再び派遣された。墓は大阪府南河内郡太子町。

なお、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」における、皇帝煬帝(ようだい)が憤怒したことで有名な 日出づる処
の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)との文言がある国書を
持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

因みに「小野妹子墓」と言うのが太子町の科長神社南側の小高い丘として伝えられている。妹子は、推古天皇の時代
に遣隋使として派遣された。また妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に
花を供えたのが、池坊流の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。

だが彼の墓地とする説よりも疑問視する人が多い。次に

秦河勝については http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/jinrakuji-temple-02.htm奈良県磯城郡田原本町
秦楽寺(じんらくじ)が有る。秦楽寺(じんらくじ)のある秦庄(はたのしょう)は、大和川の支流である「寺川」の左岸(西
側)にあり、の古代、朝鮮半島から渡来した秦氏(はたし)が、開発して、住んでいたというエリアです。

秦楽寺は、聖徳太子に仕えていた秦河勝(はたのかわかつ)が、創建したと伝えられる寺です。秦河勝さんが建立した
寺は、京都の太秦(うずまさ)の広隆寺もそう ですし、この奈良の秦楽寺も、そうだと伝えられています。河勝さんは、聖
徳太子の有力なブレーンであり、スポンサーでもあった そうです。

聖徳太子が建立したとされる7つの有名な寺がありますが(法隆寺、中宮寺、法起寺、橘寺、葛木寺、四天王寺、広隆
寺)これらも、もしかしたら、河勝さんの資金によるものもあったのかもしれません。技術、経済にたけた渡来系のなか
でも特に、代表格とも言える秦氏ですから、政治、宗教にも、秀でたものを持っていたように思います。

京都の松尾大社の創建は、この秦河勝さんの子孫である秦忌寸都理(はたのいみきとり)さんが、大宝元年(701年)
と伝えられています。京都にも、秦氏の縁の神社となると、伏見稲荷に、松尾神社、平野神社など、枚挙のいとまがな
いほど。大阪、兵庫の方にも縁が残っているようです。調べたら、まだまだ出てきそう〜って感じです。(^^)

ちなみに、京都市の太秦(うずまさ)にある広隆寺(こうりゅうじ 前身は蜂岡寺)は、推古天皇の時代の603年に創建
されたと言われています。この秦楽寺は、京都に秦氏が寺を建立してから、44年後に建てられているってことになるん
ですが、、、さて、まずは、この秦楽寺・・・ ご本尊は、千手観世音菩薩さまです。

この千手観音立像は、百済から聖徳太子に献じられたもので、秦河勝さんが太子より賜ったものだと伝えられていま
す。太子から賜った千手観音さま。これをお祀りするために、河勝さんは、方20町という領内に、荘厳な伽藍をつくっ
て、お寺を建立したそうです。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/hatashi.html さて、ではこんなにも聖徳太子に近い存在だった秦河
勝が、何故、山背大兄皇子事件にその姿を見せないのでしょうか?

山背大兄皇子が蘇我入鹿に攻められた際、最も聖徳太子に近いブレ−ンであった秦氏が、山背大兄皇子の味方に付
いた様子は『日本書紀』から読みとることはできません。しかし、山背大兄皇子が入鹿らに攻められたとき、従っていた
三輪君が深草の屯倉から東国に逃げて再起をはかるよう進言していますね。

山背の深草が秦氏の地盤であったことは明らかです。「深草屯倉」は天皇の直轄地であっても蘇我氏の力が及ばなか
ったので、三輪文屋は深草に逃げるよう進言しました。秦河勝はこの深草の財力をバックに上宮王家に経済的支援を
していました。

この事件で、秦河勝が表面だって山背大兄皇子を救うことができなかった理由には、秦氏は古くから大和朝廷に仕え
る技術者集団であったことがあげられると思います。推古天皇時、摂政として厩戸皇子は「秦河勝」という優秀な人材と
財力に着目し、聖徳太子のブレ−ンとして重用したのだと思います。

しかし、厩戸皇子は推古天皇よりも早く没してしまい、山背大兄皇子は世継ぎ候補には挙がっていたものの反対勢力
も根強く、また皇太子として正式な立場にあったわけでもないので、天皇家に使えている秦氏としては、山背大兄皇子
を救う立場にはなかったのではないでしょうか。

秦河勝は、その後、皇極天皇の元で東国に派遣されたり、天皇家の服属者としての任務を全うしています。また、平安
遷都の際、土地の提供をしたのは「秦氏である」という説もあります(以上引用)。

★さて、毘沙門天の結界としてまだ結論は出せないものの、最後に参考点を付記する。追記の第一として奇遇にも亀
岡と河内長野の南北に出雲の地名がある事。第二点として野中寺から寅の方位に信貴山・龍田大社がある事。のみ
ならず京・阪・奈の一帯を方位で網の目の様な結界を造っていた。

其の軸足となる野中寺は太子の命により馬子が造営し、渡来系の船氏が護持した寺であるが、此処に限らず一連の
寺は物部氏の拠点であるように見えて実は蘇我氏に関わる所である。第3点として中軸点である野中寺の金銅弥勒菩
薩(半跏小像)には以下の銘文が刻まれている。

「丙寅年四月大旧八日癸卯開記、栢(かしわ、かや)寺の智識之等、詣二中宮天皇大御身労坐之時一、誓三願之奉二
弥勒御像一也、友等人数一百十八、是依六道の四生人等を、此教可相之也」。

丙寅年四月大旧八日癸卯は元嘉暦で天智五年四月八日にあたり、中宮天皇は斉明天皇を指す説もある(事典の「天
皇号」を参照)。

此れについて野中寺の住職は此の年を天智天皇5年の西暦666年と見ている。此処の本堂は薬師如来を本尊としてい
るが、鎌倉時代の地蔵菩薩木造が地蔵堂に祀られている。第4点として秦氏関係先が上記の京都と田原本町以外に
も寝屋川市などにもある事。更に太子の謎と命日方位について、詳しくは歳時記の2/1を参照下さい。


★ヒジア暦・・・・・イスラム暦の一つ。2005年はヒジア暦の1426年になる。因みにヒジアの言葉はパジャマ、或いはビジ
ャヤナガル(1336年、南インドに起こったヒンズー教王国)、或いは毘沙門天とも響きが似ている。イスラム暦が北天志
向と言う点でも毘沙門に通じる。また日本語の「ヒジリ」にも響きが似ています。


日知りと月読み・・・・・方位と整合性の有る真の太陽暦を作ったのは古来「日知り」だったが、他方、月の形を観測
して陰陽暦を作った方を「月読み」と言った。

百姓・・・・・此の浮世で一芸に通じれば「芸が身を助ける」事もあるのですが、中でも武芸百般に通じれば武士の鑑
とされた。そうした時代、百姓とは百の姓と書いてマルチ人間を言ったもの。日本では一通り何でも出来るのが一人前
であり、特殊技能は工場内でしか意味がない。特に農業は一面的な専門家となれば失敗する。

つまり高等教育や海外留学は成功の早道ではなくて専門家=失敗の早道となるのです。日本の農業が失敗続きで破
綻する例が多いのは、自然とは別の専門知識と渡来農法と星のカレンダーによる仕事が原因である。

例えば、自然界から離れて無知なまま机の上で勉強して大学に進学し、洋式の植物学・生物学・昆虫学・動物学・薬
学・物理学・生理学・気象学・経済経営学等を学んで各専門家となった青白きインテリたちがいた。

彼らが各分野の官僚となって法制度を弄り、或いは農協の椅子に座ってこれまた机の上で計画し、自然の共生サイク
ルを熟知した百姓の上に立って、余計な知識で画一的に分類して指導し、助成金制度を運用したらどうなるか。必ず経
験を積んだ百姓の判断を此れで鈍らせ、農業のみならず林業も漁業も自然も破壊する事になる。

ですからもし彼らが巨費を投じて破壊した農業と自然の回復を願うなら、官僚は寧ろ全てを年老いた百姓から学ぶべ
きであり、机に座るべきではない。事務所に籠もって座るのは若い者ではなく定年後の老人だけで良い(「自然界」、
「生育サイクル」を参照)。純粋培養された若者よりも百を知る古老のほうが農業にも向いているのです。

ひな祭り・・・・・・・「桃の節句」こと人日の節句の始まり。ひな祭りは、五節句(五節供とも)の一つ。節分もそうでし
たが、季節の節目に当たって心して邪気を祓い、新しい季節を迎える為のものでした。邪気祓いの為に、その季節に
生き生きしている旬の植物を食し、その力を自分の身体に取り入れる意味があったのです(「節句」を参照)。

五節句は江戸時代に、宮廷文化を習って幕府が定めたものですが、「桃」こと上巳(旧暦3月の最初の巳の日)の節句
は、古代中国行事が元になります。漢の時代、徐肇という人に女の三つ子が誕生しましたが、三日後の三月始めの巳
の日、三人とも亡くなってしまいました。

これを祟りと考え、人々は水浴しケガレを祓ったのですが、以来この日を悪日として、水辺で不浄を清める行事が始ま
りました。この「曲水の宴」が日本の行事と結び付き、次第にひな祭りへと進化して行ったのです。

●ひな人形の起源・・・・・・邪気祓いとしての一つの形式に、「流し雛」というものがあります。日本には古来から、害虫
や病気、邪気などを舟や人形に託し、海や水に送り出して清めるという風習がありました。その形式を受け継いでいる
のが「流し雛」で、紙で作った雛人形にケガレを託し、水に流していました。

人の身代わりである人形を「ひとがた」と言いますが、これは現在の雛人形の原型とも言えます。また、もう一つの原型
としては、平安貴族の少女たちが遊び人形としていた「ひひな」があります。「ひひな」も「ひとがた」の一部であると言え
ますが、こう言った「ひとがた」が、次第に豪華な「飾りびな」へと進化していったのです。

これは貴族階級の話ですが、江戸時代になると庶民にも浸透。経済力が底上げされた元禄になると、あらゆる豪華な
ひな人形が生み出されてゆきました。
●桃の節句・・・・・・また、桃の季節という事もありますが、古来から桃は魔除けの植物として信仰を集めています。

古事記には、イザナギノミコトが黄泉の国から追ってきた鬼を、桃の実を投げて撃退したと言う話があります。他にも、
不老長寿の実、桃を食べて仙人になった中国の話、桃から生まれ鬼を倒した桃太郎など、桃には様々な言い伝えや信
仰があります。そう考えると桃は、節句の邪気払いをするには、最適な植物だった訳です。

余談ですが、桃の節供は「草餅の節句」とも言います。この時期、季節の植物は桃だけではなく、「よもぎ」でもありま
す。端午の節句にも使われますが、よもぎも魔除けの植物として名だたるもの。雛祭りの菱餅、緑は「よもぎ」で健康
を、赤は「桃や紅花」で魔除けを、白は清浄を表しています。

女の子のお祭りとしてだけでなく、本来の邪気祓いという意味では、男の子も参加できそうな行事ですね。そんな訳で華
やかな桃の節句を、ぜひ皆さんでお楽しみ下さい。-------以上は、メルマガ「作務衣の専門館 伝統芸術を着る会」
http://www.samue-e.com/より転載。と言う訳で旧暦行事ですから西暦でやってはミスマッチです。

次に少彦名命を祭る淡島明神に伝わる雛祭りの起源は此の淡島の「事はじめ」にあり、期日は3/8であると言う(歳時
記の3/8淡島を参照)。

最後にテレビからの引用です。雛祭りは人形に穢れを移して水に流す行事でした。女児を「ひいな」、男児をアマガツ
(天児)とも言った。雛祭りは女児の誕生と成長を願う祭りでした。雛人形に白酒とヨモギの菱餅を供えて飾った。ただ
宮中では小さな雛人形を祭った。

江戸庶民は浅草観音の江戸小物の雛人形を買っていた。其れに対して千葉では江戸時代から吊飾りをする地域があ
り、また江戸の町民でも大きくて豪華なものが大流行した。女雛、男雛の内裏様、三人官女に五人囃しを段飾りにした
豪華なものになった。全部で178体のセットもある。

特に九州の豪商に伝わる御殿飾りなど、何れも其の当時の時代の風俗を表している(此の部分は読売テレビの「今日
は何の日」06/3/3より引用)。何れにせよ雛祭りは旧暦の祭りですからヨモギや桃の花がなくては意味も半減します。
ですから西暦の3/3でするのは早過ぎます。



▲ふ

風神・・・・・ギリシャ神話の神としては翼を持つ「北風ボレアス神」。アテネの皇女を攫った略奪神。ガンダーラでは1
cの風神「ウァドー」に変化し、シナでは6cの雷神と一対で風神図になり、高野山では平安時代、袋から風を送る姿にな
った。

またもう一つの風の神「西風デフィロス」は「花を咲かせる神」として、イタリアのフィレンツでルネッサンスの頃、「ビーナ
スの誕生の中に描かれた、と言う説(NHKテレビ、2003/8/17、大英博物館)もある。

実際、風の神は気象庁の言うような存在ではなく、寧ろ、俵屋宗達が屏風に描いた国宝「風神雷神図」のような人間臭
い存在と受け取った方が理解し易い。事典の「風神」、「アメノ目一箇の命」、「支那津比古」も参照。

風水・・・・・風水とは五行や円相学の応用により、或いは墓相によって自然界や人の気の流れを見て城や家相を
意味付けるものである。地球は生きており、呼吸もすれば水脈も生体の血管の様に通って息づいている。此の為、磁
場も動くし固有の電界も作る。従って前記の哲理、もしくは五行の理を踏んだものでなくてはならない。

所が今は龍穴やツボも知らず、渡来の変形五行の教えを説いて風水と称する人が多いから問題だ。其れに対して現
代人も風水に関心はあっても無知なため、「今の学問とは別の、昔から実績がある不思議な法則である」かのように錯
覚して風水過信の信仰(偽商法)に引っかかる例が後を立たない。

例えば公取委は2003/12/6、フジ・アートの「風水財布」に対して排除命令を出した。こうした偽商法は売れない粗悪品
や偽物に、決まって「省エネ・エコ商品」とか、「無農薬・自然食品」、もしくは「イオン」や陰陽道などの形容詞を付けて宣
伝すれば必ず完売出来る、と知っているからである。

ただ、こうして言葉巧みに他人を騙す偽信仰商売人は、民主化、改暦、税法改正など乱発するお上と同類であり、或い
は有りもしない進化論で飯にする売学先生方とも略同じ立場の輩である。


補陀落渡海・・・・・・・「ヒジリ事典」を参照。

仏教暦・・・・・仏教は阿弥陀と言う月神に基づく信仰であり、従って暦も月の陰陽暦だった。よって釈迦の命日は今
の西暦ではなくて、この陰陽暦で定めて祭らないと無意味となる。因みに釈迦(シッタルダ太子)の古仏教は古墳や仏
塔を月の教えで祭った水神信仰でした。無論、先祖祭を否定していたし、像法もなかった。

仏像や尊像はガンダーラ佛以後の事である。

▲文月・・・・・ 

▲へ

▲へ・・・・・ 

ヘラヘラ祭り・・・・・・スリランカの仏歯祭り。4cの昔、インドの皇女がセイロン島の王妃として嫁いで来た時に釈迦
の歯を持参した。セイロン島にはキャンデー王朝があったが、13Cから外国の侵略を受けて攻められたので、其のつ
ど人々は仏歯を守って16cまで寺院を転々とさせた。

1972年まで英国の植民地となり、今はスリランカとして独立したが、人口の70%が仏徒である。かつて仏歯をめぐって
権力闘争もあったが、今も仏歯を持つ人が王の証である。年に一度のこのヘラヘラ祭りでは其の仏歯が御輿で担がれ
て市内に繰り出すのが見られると有って、各地から人々が此の聖地に集まる。

80頭の象の行進と2000人の踊り手の行進があり、ヘラヘラとはシンハラ語でこの行列を意味する。この祭りはキャン
デー市で10日間続く(05/7/7日と08/10/25日<世界遺産>のNHK総合TVより引用)。但し時期については不明。

反閇(へんばい)・・・・・・独特の歩き方による「鎮魂の祓え」であり、一条天皇が仮御所から新しい内裏に移る時に陰
陽師・安倍の晴明が行った。


▲ほ

(ボウ)・・・・・御堂の蔀戸、つまり格子戸の事であるが、シナの暦法では古くから天文単位として使っわれた。シナ
ではハレー彗星の76年の周期を基本として1蔀(ボウ)と数えたが、もう一つとして、60干支を一元と呼び、その21元
で1260年になるが、此れも1蔀(ボウ)と数えた。

ポヤデー・・・・・・・スリランカの満月祭り。毎月行われるが、スリランカに仏教が伝わった六月が特に盛大に行われ
る。04/12/26日もポヤデーの日にあの大津波となった。05/6月、寺では信徒たちがココナッツオイルを入れたパハナと
呼ばれる小皿に火を灯して犠牲者の御霊に手を合わせた。

梵天(大梵天)・・・・・・・バラモン教では天部の第一の神であり、パラガマとも言うが、日本の国常立尊の事。

煩悩の数・・・・・大晦日に鳴らされる除夜の鐘は,人間の煩悩を清めてくれると言われています。鐘は煩悩の数だ
け鳴らされ,その数は108回に及びます。人間の感覚を司る,五感(視・聴・嗅・味・触)に「心」を加えたものを,「六根」
と呼んでいます。

それらを「好(気持ちがいい),悪(不快),平(どちらでもない)」の三段階に分け,6×3=18で18種類になります。更
に「浄(きれい),染(きたない)」に分けて18×2=36の煩悩が出来上がります。それぞれに「過去,現在,未来」の3
種類が加わり,36×3=108となって,全部で「108つの煩悩」となる訳です。

昔から日本では,鈴や鐘の音に浄化作用があると信じられていたために,除夜の鐘が定着して来たそうです。一つひ
とつの音に意味があると思えば,何となく聞き流すのは勿体ないような気持ちになりますね(この項目は「メルマガ い
ばらき」より引用した)。

▼          
▲ま

祭り・・・・・日本の祭りは毎日何処かで行われるが、その本質は先祖祭りであって、米や金を祭るものではなかっ
た。だが、実利優先の月世界の主な祭りは豊穣の神・月神に対する収穫感謝祭であり、例えば正月、節供、仲秋など
を祝う。つまり米や五穀豊穣、其れに大漁祈願祭となり、今では銭金・経済のためのイベント・商魂祭となっている。

・・・・・・古の祭りは先祖祭りで祭政一致の理法を示す祭り事でした。しかし月世界や現代日本の政は、「祭り事」
を排除した「祭政分離」の利権の場となった。

此れで、「運を天に任せるツキ次第」の政となったため、赤字国債668兆円とし、公的年金自主運用でも赤字7兆円
(2003/7/23サンケイ)を出してしまったのに誰も責任を取らない、「不思議の国、ニッポン」の体質は極楽トンボの「お
上」根性がツクっている。

満月・・・・・・・月は天空に毎月一回の満月(望)を見せるので人は此処から月読みの暦とした。其れに比べて太陽
は如何に連日輝いて見せても満日や名日と賛美される事がない。其れに比べて夕方から夜空の満月は美しく、中秋の
名月は特に素晴らしい。満月の光量は半月の月明かりに比べて12倍の明るさと言われる。

其れに対して朔・新月は無月であるから闇夜となるので、其の分だけ星が輝く事になる。従って月と星とは仏教とキリス
ト教の違いのように、中々両立し難い関係である。月、特に満月の力としては海の大潮や潮汐作用があり、陸地では
植物や生物が一番熟する時期となる。因みに今回の04/12/26日に起きたスマトラ地震・大津波は満月でした。

人類の場合は出産が多くなり、またホルモンの分泌が狂ったり精神的に不安定になって攻撃性が高まり、殺人事件を
多発させ、負傷した場合では出血が多くなる事が知られている(事故災害については「月の波」を参照)。

満月の日が満潮ですか?------満潮と大潮------潮の干満は毎日起きています。満月や新月に起きるのは大潮
です。大潮とは潮の干満差の大きい状態で、新月(旧暦の1日頃)や満月(旧暦の15日頃)の前後数日間が大潮とな
り、漁師たちが喜びます。大潮については以下を参照。http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic1.html

満月の働き・・・・・・・月は樹木に対して、満月には木の上まで水を吸い上げ、逆に新月には水を根っこに戻す。ポ
ンプも持たず電気も使わず水を高くまで吸い上げたり吐き出したりしています。作物はこのように肥料でのみ生育する
ものではなくて、月の力による水と、日光の蒸散作用との合作です。

ですから例えば新月に種を蒔いて満月に刈り取る。其の原則に沿って農業を営めば、人が特に人力を使わずとも滋味
豊かで美味なナスやキュウリなどの生り物を常に収穫出来る。但し、「月夜の蟹」は身が少ないと言われるように、作物
の場合も地下のもの、水中のものは満月よりも新月の時に膨らむ。大根など、根菜類も新月の収穫が良い。

材木の伐採や植木の剪定も新月の時のほうが湿り気が少ないので材木を痛めず、重さも軽いので運搬も楽である。
其れに比べて満月の例えば春から秋に掛けて木々が成長するが、その頃の木々には蟻や毛虫も多く、剪定や伐採作
業は仕事の「お邪魔虫」に遮られて困る。よってそうした作業計画は満月頃を避けたほうが結果として楽である。

近代物質科学は自然科学と言いながら実はこうした自然界を無視して、不自然な計算によって不自然な機械や電機や
箱物を造って大量生産・大量ゴミを作ったり、金肥(化学肥料)によって農業をして此れを進歩発展と自画自賛して来た
が、各分野で今や矛盾が露呈してきた。

其れまでに神の理は自然界に魂を入れて、各々の内部から無理なく膨らませると言う素晴らしいシステムを完成してい
た訳です。其れに対して今の科学は「仏造って魂入れず」の幼稚でお粗末なものであり、従って月読みの暦を無視した
洋式農業が悉く失敗を重ねた事になります。

曼荼羅(マンダラ)・・・・・・・古代の曼荼羅はチベットに今も伝わる砂曼荼羅のように、平面上に方位を決して暦とす
るものでした。此れは今も秘法とされ広く公開される事はなかった。だが実は絨毯として別のルートで南蛮船に載って
堺の湊に戦国時代に入って来ていた。其れを吾々は洋間に敷いて尻に敷いて使っている。

真の曼荼羅を尻に敷き、他方では日本の寺院にある曼荼羅の殆どは形も意味も変わり、変相曼荼羅や「絵解き」壁掛
け曼荼羅となって何の意味もなくなった。なのに其れを日本人は「有り難いもの」として其れは拝観しているのですね。

▲み

▲三日月・・・・・・朔、つまり新月から三日目の月の事である。所で三日月のマークを国旗とした国にはもっと別の意味
もある。

一つは毎月繰り返す三日月で、此れは月が星を食べる形であり、また次の意味は満月の時に年に1〜2度、太陽に食
べられる月食の形であり、或いは其の逆に太陽を月が鋭い形の三日月のように蝕んで、終には黒い太陽にしてしまう
日食である。

何れにせよ月を国旗に掲げる国々は西洋と日本との間にあって其の緩衝地帯となって来た衛星国であり、多民族の
諸国家である。

▲水・・・・・・水は変化の力を見せる月の精であり、また水は融通無碍に何の拘りもなく高きから低きへ自然に流れる。
丸い所にも四角張った所にも素直に応じて其の姿を変えて従うのみならず、熱ければ蒸気となって舞い上がり、冷やさ
れれば固い氷となって耐える事も出来るのです。其ればかりではない。多くのものを育てる。

其の水の働きは必ず三方に広がるので非対称の形に成長する。竹の子やキノコも必ず三兄弟揃って出て来ますので
見つけ易い。そうして水は、魚や作物や森や虫、獣や鳥も、そして人の出した汚濁も洗い清め、多くの物を溶かし込ん
でしまう事も出来る大きなお母さんのような存在です。

御堂・・・・・御堂は其の正面に柱(または卒塔婆)や金堂・塔を立てたお堂である。つまり塔の北部に位置して、日
影を観測したお堂であり、御影堂・御堂・薬師堂・観音堂・弁天堂・地蔵堂・・・など、今では色んな名称になっているが、
其れは其処に後で祭った仏像によって固有の堂名としたに過ぎない。要するに御堂とは元々「見るお堂」であった。

このため御堂の基本寸法は一定の様式に規格化されていた。其れが「格式」である。基本は方丈、つまり十尺四方の
建物であり、内部は天井格子、床は四畳半の畳を敷き詰めて方位と整合する様式・格式の座・座敷になっていた。この
堂は要するに、昼までに日の南中する角度を確認し、夜間には星座の位置を確認して暦と時刻を決定する場でした。

其の為の一定の規格としての建築様式が格式であり、その格式が茶室の原型にもなった。そして四周には蔀格子を巡
らしてその中心部に坊主が座して天体観測をして暦と時報を決める場になっていた。此処でやや詳しく推算すれば、縦
横奥行き各々一丈(10尺)の御堂であれば、内陣の寸法は9尺立方となる。

壁の高さが10尺でも床や天井にこの内の1尺を減じるとすれば内陣の天井までの高さが9尺、そして内陣の広さが9
尺四方で四畳半となる。つまりこの内陣(四畳半)の中央(視座)は御堂の庇のラインから5尺、シトミの場所から4.5
尺の位置になる。

其処から空を観測するにはこの4.5尺先のシトミを通して、5尺先の庇(ヒサシ)のラインを虚の座標として計る事にな
る。そのためシトミの桟の作る孔(小窓)の寸法は基本的に「9/1尺」とすれば、シトミ一面を使い勝手の良い算盤に
出来たろう。其のサイズを更に細分化するかどうかは対象とする星をどの星に決めるかによる。

例えばシトミ戸一面当たりの桟数は、木星ならば12本、ハレー彗星ならば19本、土星ならば30本の桟を基本として
組上げれたろう。しかも単なる数合わせではなかった。観測にとっては平面にしなければならない。このため桟には
態々ホゾを切って嵌め込んで仕上げたのが日本の建具の技でした。

こうした座標盤があったために寺には鐘があり、其の鐘で定時に時を告げる事で村人たちの役に立つ事となった。しか
し今では其れが全て忘れられて歴史家は昔にどうして時刻を知ったのか、を知らず、また暦法家は古代にはどうして暦
法を編んだのか、を知らない。基本を知らずに歴史を断定する事のないよう願いたい。

同様に他の専門家や寺もこの貴い御堂の意味役割に気づく事も無く、従って今では何処の寺社でも坊主の代わりに仏
像か尊像を留守番させる像安置倉庫兼・賽銭回収箱として誤用している(「シトミ」、「格式」を参照)。

御堂の作り方・・・・・・・今の社会では自分の会社を作るのが男の夢である。そんな中で自分でお寺を建てようとする
人はないに違いないので此のテーマは多分、奇人変人にも軽蔑される事を覚悟しているが、今会社を作っても数十年
先には消えているに違いない。其れに対して、寺や神社を建てた人たちは歴史に名を残した点を先ず指摘して置く。

ただ此処では宮大工の話は除外して天文暦数のシトミについて述べる。例えば直径3mの枠(フェンス)が手軽です。此
のフェンスを出来れば頭上に設えればシトミになります。此れなら庭とか少し大きなベランダがあれば可能です。先ず
10cm間隔の升目格子の鉄筋(1×2m)を買って来て丸めて3mの円形にする。

そうすれば72ヶの格子が横に並ぶ。此れだけで東西南北の四方に対して、各々18のマス目となります。此れが観音堂
の様式(18が観音様の縁日)である。或いは丸めず方形にすれば碁盤と同様式の座標盤です。何れにせよ18の升目
が一昼夜24時間の6時間を計る座標となります。

つまり1時間に星座が各3マスを通過するので1マス当り20分刻みです。ですから此処を観月堂とする事も出来ます。ま
た昼は太陽観測の場となります。格子状の日影が織り成す所を確認して南北の方位を決定し、其の箇所に印を付けま
す。或いは十文字に注連縄(白い紐)を引き渡します。

こうして四方を確定して天体の動きと暦とを確認して見てはどうでしょう。ただ鉄筋は直ぐに錆びますので、注連縄を張
る前に貴方のお好きな色に染めて下さい。ただホタル火の微かな光を探すならば艶消しの黒が最適です。

▲緑の革命・・・・・バングラディシュは1970年に建国以来、人口増に応えるために「緑の革命」を国策とした。此れは従
来の品種の稲より二倍の収量のある新品種を栽培する事だった。御蔭で餓死者が50万人から25万人に減ったけれ
ども、大量の化学肥料と農薬と灌漑設備とを必要とした。その結果、土が固くなり死んでしまった。

しかも地下水の砒素が湧き出して中毒患者が増大して飲料水にも困る事態となっている。

▲む

▲睦月・・・・・西暦の1月の事ではなくて2月の頃。

棟札・・・・・・寺社や旧家の大黒柱に括り付けられている札木で、棟上の際に付けたもの。年号が入っているので創
建、改修年月日が判明する。のみならず其のときに祭られた神、及び施主や棟梁の名が記され、或いは当時の呪法
が如何なるものだったかの手掛かりが残されている。

例えば数理は今の様な十進法ではなくて三進法(別項参照)だった。円形、または方形を中心点から八等分して其れを
また細分化して例えば、3×3=9、9×9=81 として行くのである(九字、または口分田を参照)。

▲め

▲目の薬師・・・・・・・薬師は天文観測の神であった。日光と月光の両脇侍に12神将を従えているのは日暦と月暦を弁
えて12エトの方位から12ヶ月を決した目を持つ場だった事を示している。このため高台で東方を観測したので、東方
瑠璃光如来と言った。

しかし今では薬師が眼病の神として、或いは薬王・薬上菩薩とも誤解され、更に医学一般の万能の神と誤信されご利
益信心の場と化している。
         
■メトン期(法)・・・・・・紀元前からシナで採用されてきた四分暦(何故四分としたかは御堂を参照)と同様、太陰年を季
節に合わせるため、19太陰年に7閏月を置く暦法である。此れは紀元前433年に、ギリシャのメトンが発明したとされ
ている。この循環をメトン期と言う。

▲も

▲もがり・・・・・偲び事、弔い。
▲桃の節句・・・・・「ひな祭り」を参照。


▲や

▲弥生・・・・旧暦の三月の事ですから今の3月とイコールではなくて今の四月頃になる。「弥生」の名前の由来は草木
がいよいよ生い茂る月、「木草(きくさ)弥(い)や生(お)ひ月」が詰まって、「やよひ」になったとも言われています。弥生
の別称は「花月」「花見月」から「嘉月」「夢見月」と、何とも花々しく浮かれ気分の月ではないですか。

昔の人も厳しい冬が終わり、きっと心躍っていたんしょうね。------この項目の一部はメルマガ「作務衣の専門館・伝
統芸術を着る会」http://www.samue-e.com/から転載した。


▲ゆ
▲・・・・・

▲よ

▲横並び・・・・・星の社会では横並びを好まず、何でもランクを付けて上下を決めたがるが、月世界で盛んな稲作の特
長は、同じ時期に一斉に仕事をする共同作業である。其処から横並びの習性が付く。流行の広がるのも水が広がるよ
うに早く進む。同様に、この世界では平等思想が強い。権威も富も直ぐに平準化してしまう。此れを民主化と言う。

黄泉の国とは夜見の国の事・・・・・・・一つの太陽を天のシンボルとして暦法観測をして来たのが日高見の国、扶桑
の国、和の国の日本でした。だが、熱砂の国では太陽は全てを焼き尽くす悪魔であり、其れに比べれば月は熱い夜を
冷やし、夜道を照らしてくれる存在であり、まさに神であった。

星もまた天空の目星として、人の行く夜道を正しく導いてくれる存在でした。だから大陸では太陽ではなくてその星月を
神とも見て観測して暦とした。其処でこの諸国の事を「夜見の国」と言い、漢字が渡来してからの日本では「黄泉の国」
と書いたため、今では「あの世の事」と混同されている。

▲ら

雷神・・・・「日知り事典」を参照。

ラマダン・・・・イスラム教徒の断食月。断食とは言っても難行苦行ではなくて、食事の楽しみを皆で味わう期間でもあ
る。だから彼らにとってはラマダンが寧ろ嬉しくて仕方がないので、毎年、事前に彼らの話題は「新月が何時になるか」
がもちきりとなる。其の最初の細い月を見た人が叫ぶ。

其れが「カレンダー」(さけんだー)の語源である。05年は10/4〜5日だった。国によって日時が違うのは月が移動する
ためであり、従って月の見える位置が地方によって違うため。つまり、此れが暦法の違いである。因みにイラクでは06
年の9/23日がラマダーンの初日。


▲り

・・・・・恐竜は約6500年前に絶滅した。その原因について地質学で見るとイリジウム隕石の衝突によって地球上
が焼き尽くされ、地上が暗黒大陸と化したので植物も壊滅した結果、食糧が尽きて滅んだとし、其の例としてメキシコの
ユカタン半島の先端部には、当時直径10キロの隕石が落下した痕跡があると言う。

イリジウムは地球上にあまり存在しない元素である。其れがこの隕石の落下時に世界各地に散った事が地層から発
見されてきた。とは言うものの、諸説があって定説はない。例えば隕石衝突で炭化水素が蒸発し、其れが煤すすになって
拡散し、恐竜を絶滅させた、との新説も出て来た(2003/12/11、ロンドン大学提唱)。

龍神・・・・・龍はサタン、ドラゴンとも言われるが、其れは進化論的化石学や地質学で一億年前に繁栄したと言うザ
ウルス(恐竜)の事なのか、と言えばそうとも言えるが少し違う。彼らは極めて人間的な意思を持ち、しかも超人的で、ま
るで神の様な大きな動きをする。其処からこうした存在について古来人々は「龍神」の働きと見て来た。

だが龍は神とは違って山に千年、海に千年、そして天空に千年の併せて三千年もジッと孤高に耐えながら神の眷属と
して多種多様な姿で存在して来たし今も生きて活動している。だが其の姿は神のように中々見えない。龍は神ではない
が、祓い戸の神々の眷属として多数存在し、共同で働く。

先ず色分けでは金龍銀龍など凡そ七色があり、機能別では先ず天気のハレ雨風を司る白龍とか、イタズラ者の風
神、そして河川に化けて棲み、クリーナーとして働く青龍、或いは野に伏せてジッと長期間潜む黄龍・土石龍、或いは動
植物と化したり、巨木に住みついたり、作物を育てる木龍がある。

或いは火を伴う赤龍、そして少し乱暴な黒龍、更に天地の通信・運搬を司る伝播系の通龍もある。龍たちは多士才々・
多彩多様に存在するので、人が其れに気づかずに井戸を埋めたり巨木、特に楠を伐採すると龍を怒らせる。其れに無
知な人が下手な対応をした場合は災いとして祟りを見せる。こうした例は枚挙に暇がないので要注意である。

「見えないモノは存在せず、存在しないものは信じない」とする一見、科学的な態度で全否定したり、其れを「迷信」と見
て一蹴するのは簡単だが、後で後悔する事のない様に寧ろ教訓とすべきと思い、老婆心ながら1〜2述べて見る。例え
ば、古井戸を埋めたり古木を伐るのは良くない。

勝手に生えて来た樹木であったとしても、人間の勝手な都合で切るのは要注意です。特に100年以上の木は誰が何の
目的で植えたのかさえハッキリしないものですから、今の人が勝手に判断して良い訳が無い。しかしどうしても伐る必要
に迫られた場合は、其れに代わる雛型(同種の若木)を傍ら、つまり其の日の方位の陽側に準備します。

こうして両者間に注連縄を張り、お神酒や盛塩を捧げてお移りを願い、一晩置きます。そして翌日、その場の変化を見
てから工事に掛かれば祟りで事故になる事も障りも回避できるでしょう。

次に竜神が天気に関与していることを述べる。彼らが自然界の汚れを祓って諸現象を見せる。其の副産物として人類
は水(風雨)の恩恵を頂くのである。彼らは色んな方法で掃除するが、先ず渦で低気圧を作って上昇気流を発生させ、
選ばれた者が自ら天に昇る。

次に、下降する場合には高気圧を作って雲をかき集めて置き、其処に気圧の変化で風を作って一定の地域の上空に
運んで行き、団子に丸めて雷雲(積層雲)とし、冷暖取り混ぜて電気を発生させ、雷雨を降らす。其れを上昇気流でまた
回収するのだが、まるで母親が多数の子供を急きたてながら集めるように掻き集める。

そうした様を、山麓から上る切れ切れの端雲の群として彼らは人の目に見せている筈である。だが通常は、地上の水
分を風で巻き上げながら同時に植物を育て、次は上空に溜めた雲を別の必要とする地域に運んで降らす。或いは、あ
る地域の気温を下げて、空気全体を過飽和状態にして雲の中に水滴を作って、其れを地上に滴下するのである。

とは言うものの、彼らは気象庁の言うような屁理屈やご託宣に従って動く訳ではなくて、実に動物的な感覚ですぐさま反
応して大胆、巧妙に動いてくれる有り難くも実に怖い存在である。だから彼らに気づく人には即反応してくれる。逆に無
視したり信じない人には殆ど働かない。因みに龍を日本では辰とも言う。

この竜神のマークは三つ鱗(ミツウロコ)、または其の倍数の九鱗などで示されているので、こうした印を見たら、粗略に
扱わない方が賢明である。彼らはプライドが高いからです。因みに中国の歴代皇帝に謁見した場合は「竜顔を拝する」
とした。清朝の国旗も黄龍旗だった。其れが中国共産党になって五星紅旗になった。だからその下では働きが鈍る。


▲・・・・・


▲る
▲・・・・・

▲れ
▲・・・・・

▲ろ
▲・・・・・


六曜日(星)・・・・・・大安を吉日とする常識であるが俗信・迷信である。現代の日本人は「自分は科学的である」と信じ
ているが、実は他方ではこのような六曜信仰には逆らえずに大安を選んで挙式を決めたり友引を避けて葬儀をする弱
さがあり、その弱さは暦法軽視に起因すると思われる。

この六曜日とは先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口が一定の決まりによって繰り返す事であり、例えば「仏滅」は、釈
迦が六日毎に滅びる事ではなくて、かつては単に寺や坊主の休業・休日に過ぎなかった(仏滅・友引)。
此れは元々室町時代にシナから渡来した迷信であり、時間の吉兆を表すものだった。

六曜日(星)の仕組みは、旧暦1/1の元日には必ず先勝から始まり、次の1/2は友引、1/3は先負、1/4は仏滅、
1/5は大安、1/6は赤口、そして月末でいったん打ち切り、2/1は友引から始まり、3/1は先負から、4/1は仏
滅から、5/1は大安から、6/1は赤口から、そして7/1はまた循環が戻って先勝から始まるのです。

ですから桃の節句は必ず大安となり、端午の節句は先負け、大阪天神祭(旧暦6/25)は赤口、七夕は先勝、中秋の名
月は仏滅、七五三(旧暦11/15)は先勝、と決まっていた。しかし多くの人が「昔の人は教育もなく、考え方が古くて迷信
に頼って暮らしていた」と見下している。だが実は旧暦時代、この六曜に対する信仰は全くなかったのです。

其れが明治になり、西暦になってから民間で「おばけ暦」に此れが出て以来、不思議・迷信の流行となったのです(この
項はサンケイ新聞H15/6/26〜7/3の小林弦彦氏の解説から一部引用した)。

要するに西暦の七曜と同様、6日〜7日で繰り返すだけの意味しかなく、特に六曜日(星)の場合、連続性が月ごとにブ
ツブツ切れる(暦法により多少異なる)のですから何の不思議な事もなく、占いにもならない。そう言う訳で本会の円暦
では六曜をカットしている。

ローマ暦・・・・・・1月を29日か30日、1年を12月とする暦法。ただ此れでは1年が350日余りで10日ほど少ないのでカエ
サルシーザーを悩ませた。BC48年、彼はエジプトへ渡った。当時のエジプトでは1年を365日と1/4日とする太陽暦を使
っていた。彼はクレオパトラに誘惑され、長期滞在する内に、エジプト暦の正確さに驚いた。

其処でローマでも採用する事になった。4年に一度、閏日を付けたのである。但し毎月を30-31日とし、2月を29-30日と
した。BC44年、彼は暗殺され、次にオクタビアンス(アウグスツース)が出たが、彼は2月を更に削って8月(Augst)の日数
を31日とした。其の後、グレゴリオ13世が400で割り切れる閏を採用したのが今のグレゴリオ暦である。

以上は08/4/24日のNHK総合TVから引用した。





▲わ
▲・・・・・
▲を
▲・・・・・




「月読み」は以上。
次は 
「夜見の月の暦」(月星暦の対照表) ・・・ ・・・ ・・・ ・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
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