http://toki.mikosi.com                日知り  page048.html    


日読み5(真太陽暦)解説5  
       日読み5


トップへ
トップへ
戻る
戻る

此処では「円暦、日読み、日知り暦、日見の暦、真太陽暦、鬼暦」とも言う。
・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★

(ほ)

方位・・・・・・定点(中心)に対して四方が有る。四方を五方位に画して日本(ホツマツタヘ)では古来、キ(東)・ツ(西)・
ヲ(中)・サ(南)・ネ(北)、と呼んで来たが、漢字では其れらを東西中南北と書いた。何処の場であっても、原点(中心)を基
点とする時、必ず東西南北が存在する。

この場合の基点は現在地であり、物事の中心点であり、基準点であり、其れを原点・定点と言う。其処までは異論がな
い所だが、次からが問題である。先ず、神を日月星の何れとするかで三大暦法となったように、選ぶ神の位置によって
方位の採り方も違って来る訳です。

主神を先ず太陽とした場合は「天子南面」の南天主義となり、逆に、神を星とする場合は北天主義となります。前者は
黄道の芯から四方を画して真北を決したが、後者は「子」の方位を赤道の心、つまり地軸主義から子午線を採った。其
処で両者は角度にして凡そ11度ズレる。

何れにせよ、方位の基準をこの子午線、つまり南北線から北の位置、つまり「子の方角」であると統一すれば矛盾が縮
まるが、わが国には其の外にも各種の北があるので混乱を作っている。暦法の北は本来は冬至点であり、「子の方
角」に合致しなければならない。

其れは個別の定点で太陽が南中する方角の逆、つまり日影が出来る方角であり、此れを真北と言った。所が天文台で
は此れを特定する事が出来ないので別の概念である「正北」と記述しているが其の定義をしない。此れは「史記」に出
てくる用語であるが天文台の言う「正北」が如何なるものかを全く説明できないでいる。

何れにせよ、その「正北」に略近いのがGPS北である。其れに対して「磁北」があり、此れはコンパスの磁針の指す方
位ですが、各地で偏角によるバラツキがある外、磁気嵐で乱れる外、近くに車や鉄製品があれば磁針を狂わすので方
位の指針とする事が出来ない。だが此れを近代科学は全ての基準として来たのですから問題が大きい。

磁北の例として大阪では子午線から6.4°も西を指すので、円暦では一応此れを12/16方位に固定している。其の
外に地図に表示された図北(方眼北)がある。此れは丸い地球をメルカトル図法などで方眼形に仕切ったものなので、
実際の北とは違う方角を図示する事となる。

この様に1つの基準とすべき「北」について各種の「北」があるのは重大な問題なのだが、更なる問題は、それらの内の
どの北を示しているかを地図や測量図に明示していない点である。また、「恵方」とか「行方」の「え」のように、ある一
定の方位に動く事を「え」と呼び、其れを古来「之」の字にした。

其れが「しんにゅう」に変化して国字の辷込辻となり、或いは其の他多くの会意形声文字となった(「え」を参照)。この事
は、方位に対する太陽のエネルギーが年間を通じて一定ではなく、366方の方位盤を日々一目盛りづつ移動して行く
事を意味した(別紙の「真の太陽暦」を参照)。

数字よりもそうした気の流れを東洋では重視したので方位に厳格でした。

方位と月日・・・・・方位の上を日々移動するエネルギーを読む行為を古来コヨミと言った。例えば磁北の場合は地
磁気として変化するが、大阪では現在子午線から6.4°西になるので、円暦では此れを12/16日の方位に一応固
定している。

太陽のエネルギーは366方の方位盤を日々一目盛りづつ移動して行く(別紙の「真の太陽暦」を参照)ものと仮定して
良いが、実際は東西線を軸に羽か扇形に振幅する。このため古来、祭りは方位を基点とし、方位の基線は二方・四
方・八方をすり合わせの区分とした。

ただこうした時空の範囲や容量は大きくかつ広いので、単純で薄っぺらな機械的・数値的なコンピューターではデータ
保存も計算も不可能です。よって実際に人が行うしかない。この場合、八方を四方四隅(維)に区分した。

円暦・方位は先ず真北を冬至とし、其処を基点として時計回りに一周する方位暦であり、従って北東が立春に重なりま
す。以下同様に、真東が春分、東南が立夏、真南が夏至、南西が立秋、真西が秋分、西北が立冬、そして真北が冬至
に重なる。此れを古来「四至(時)・四立」と言った。

此れを今の月日にすれば冬至と夏至が12/22と6/22となり、其の日から45日後が立春(鬼門)と立秋(裏鬼門)
で、2/4と8/5となります。そして冬至と夏至から91.5日目が春分・秋分であり、其の137日後が5/7の立夏(巽)
と11/6の立冬(乾)となります。

ただ此れは方位に基づく円暦八方日なので、其れとは別の、星座によって天文台が行う今の西暦日決定日とは若干
ズレます。だが古式祭りはこの円暦八方から見なければ分からない。

方位と暦の整合・・・・・・・自分の部屋の中心など、ある「定点」から周りを見た場合、其れが円暦になります。円
暦で読めば、一日と一年の角度が1/366の比率で季節が移動して行く事を正確に確認できるでしょう。此れが円暦・
万年暦であり、其のスタート地点は真北となりますが、凡その事は何時でも分かる。

例えば基本的な御堂では、建物の間口が1丈、または四畳半の部屋になる。一般家屋の場合でも四畳半の中心に座
して障子の桟を見たとすれば、略一寸刻みで日が移動する事が確認できるでしょう(「シトミ」を参照)。其れを確認した
日付と地点を記して置けば、来年また同日同時刻に日光が其の地点を再び通過します。

其れが方位と暦の整合の一例です。但し星を基準とした今の暦法では日時がズレる。

方位の計り方・・・・・・・昼間と夜間、其れに野外と室内などの違いによって色々あるが、以下に数例を示す。但し
要件として水平と垂直が必要です。水平はお皿や何かに水を入れて置けば良いし、垂直は糸に錘を付けて垂らせば良
い。丸いお皿の場合は内のりにクッキリと水平面が表れる。

何れも垂直と水平との交点が水準・基準となりますが、此れは地球の地軸に直交(直角)・平行する場(緯度経度の基
準点)で、其れに斜光する日光を捉える方法になります。

@太陽が出ている正午時刻(厳密には西暦の正午ではない時期もある)に杖を立て、或いは錘付きの糸か紐を垂らし
て日影を見れば分かる。日影が水平面に示すラインが子午(南北)線である。日時計も此れと同じ(図説を参照)。

Aタライに水を満たして釣り道具の浮に錘を付けて浮かせる。出来るだけ細長い浮がよい。水面の水平と垂直の浮に
よって正午の影を捉える。タライでなくて池や水田でも良い(浮き船を参照)。

B或いは正午時刻(厳密には西暦の正午ではない時期もある)に日影の線に366円暦を広げて南北を合わせれば四
方が確認出来る。此れも日時計と同じ。

C太陽が出ている時間に窓の桟や柱の影が日影を落とす。其の中で、畳など水平面上に落ちた日影が其の時間の方
位です。

D太陽が出ている時間に腕時計の文字盤の親針を太陽、または日影のラインに向ける。次に文字盤の12時方位を確
認する。其の12時方位と親針との角度の開きがV字になるが、このVの二等分線(中間点)が子午線である。此れは春
分と秋分の頃に最も誤差が少ないが、其れ以外の時期には伸縮する。

E地図を広げて、同時に周囲の道路などに其の地図の方位を合わせて見れば、其の地図の上が図北と確認出来る
が、必ずしも正確ではない。

F夜間、北斗七星とカシオペア座の位置から北極星を探し当てれば其の方位が略子午線(地軸)の北(真北ではない)
である。また北極星と自分の位置から逆方位がほぼ南(真南ではない)である。

G磁石(コンパス)による場合、略南北を指すが、磁針は真北よりも西に傾いた方角を示す。此れを偏角と言い、大阪
の場合は真北よりも6度ほど西を指す。更に鉄筋コンクリートや車やスチール製品が周りに有れば出鱈目な方位を示
すので要注意。

H今はカーナビや携帯電話で現在地が分かる。インターネットの地図でも緯度経度が詳しく判明します。
I・・・以上、色々有るものの読み違う事もあるので、出来れば2〜3のケースを試行して何れも合致・整合するかどうか
をチェックして見るのが望ましい。




方位分析盤・・・・・・この「日読み」暦(真の太陽暦)盤の事。或いは占いで使う羅盤(式盤の事。





真北・・・・・・本書(本暦)では便宜上、国土地理院の地図の子午線を真北・真南と看做します。さて基点から見て
何処の場にも東西南北がある。この場合の基点は現在地であり、物事の中心点であり、基準点であり、暦では其処を
定点と見る。因みに旧暦の子の月、つまり霜月(11月)の中気(15日の満月頃)が冬至でした。

方位の基準はこの子午線、つまり南北線であり、北の位置、つまり「子の方角」ですが、其の外にも今では各種の「北」
があるので混乱しないようにご注意下さい。暦法の北は古来「冬至」点であり、地図の場合も上下が「子と午の方角」に
合致しなければならない。

太陽が南中した時に日影が落ちた方角を真北と言う(しかも日影の長さが最短となる地点)。言うまでもなく太陽は黄道
を周回する。所が現代科学は西洋式の赤道(地軸)中心主義によって、太陽を見るので如何に精密に観測しても誤差
が出る。

例えば西洋天文学では太陽黄径270°になる所を冬至点と言うものの、天文台では此れを特定する事が出来ないの
「正北」と言う。南中時刻についても、国際標準(英国・グリニッジ)時に9h足して日本(中央)標準時としているので、
各地の南中時間とはズレが生じる。その「正北」に略近いのがGPS北である。

また其れに対して「磁北」があり、此れはコンパスの磁針の指す方位ですが、各地で偏角によるバラツキがあるため、
大阪の場合では「正北」、または子午線から西に6.4度傾く。其の外に地図に表示された図北(方眼北)がある。此れ
は丸い地球をメルカトル図法などで仮に方眼形に仕切ったものなので、実際の北とは違う方角を図示する。

この様に各種の「北」がある外、更なる問題は、地図や測量図では其れらの内のどの「北」を示しているかを明示してい
ない点である。更なる問題点として、暦の冬至が例えば2003年は12/22だったが、2004年は12/21である。

この様に基準とする所が21になったり、22になったりバラ付きが有っては暦としても致命的な欠陥があり、こうなるのは
真北と言う方位を基準とはせず、星や地軸を基準とした上に数字主義に偏ってしまった事による弊害です。古の太陽
暦ではこうした杜撰な事はしなかったでしょう。

兎も角、今の暦を併用する限り、春分の日以下が毎年変動するので困ります。其処で円暦の場合は現行暦のフラツキ
に関わらず真北と冬至を12/22に固定し、また原則として国土地理院の地図の子午線の「北」を仮の真北として解説し
ます。此れにより方位の誤差を1/4だけに止める事が出来るからです(「閏」及び「冬至」を参照)。

・・・・・・神を「待つ」場。即ち田の場に丁(尺度)を付けて一定の定点・区画を示した。因みに田の字は水田ではな
くて四角の壇の中心点を図示した文字(「日知り事典」の同項を参照)でした。

●マチュピチュ・・・・・・ペルーのクスコの北にあるインカ帝国のマチュピチュの遺跡。此処はNHKの世界遺産で第
一位番の人気となった所。町は高い山の上にある。どうしてそんなに高い山に町を作ったのか謎と見られて来たが、イ
ンカ王は、太陽に近づくために此処を定めた。此処は冬至と夏至の日に特定の所に日が差し込むようになっていた。

また日時計もある。此処は階段状の畑があり、トウモロコシを植えている。トウモロコシで儀式の時の酒を作る。其の酒
を飲むときは、天と地に先ず捧げて飲むのです(06/4/16のNHK総合TV「世界遺産」より)。


●マヤ暦・・・・・・・中米ユカタン半島で4c〜9cに栄えて消えたマヤ文明が残した暦の事で、1年365日で数える外、
他に、1年を260日周期の神官暦もあり、この両者を組み合わせて52年周期の暦法を使っていた。

丸暦・・・・・・・数字式の四角のカレンダーではなく、天文方位を重視した暦盤。古来世界の暦として使われていた
が、今は東南アジアの曼荼羅暦などの一部にしか存在しないので、此処では別項の「万年暦・真の太陽暦」として公開
している。

万年暦・・・・・・・真の太陽暦の事である。現行の数式カレンダーと古暦盤との違いは、方位をどう扱うかどうかであ
る。今のカレンダーには方位がなくて数字だけです。だが本来の暦盤は方位盤や時計の文字盤と同様になります。不
動の存在である毎年の太陽の出入り方位を共通項(基軸)として暦日と時刻が重なるのが万年暦です。

それに対して、月や星のカレンダーは波のごとく方位の中を滑って動く存在、或いは直線的に進化論で縦軸を一本調
子で進む一方通行の時間、或いはX軸とY軸の座標軸で平面的に捉える時間ですから、譬え「万年暦」と言うのがあっ
ても真の其れとは違ったものになり、しかも年々修正を繰り返す宿命となる。



●ミアラカ・・・・・・・昔は暦法で云う「新たな一日」を「アラカ」と言い、暦日を観測する場、つまり「見る場」をミアラカと云
い、漢字では「殿」と書いた。よって其処に住む方を殿と呼び、臨時にお籠りする事をトノイと言い、宿直と書いた。仏堂
は本来、御堂、つまり「見る堂」であり、其処で確認した暦日から決する時間・刻限を「シバ・トキ」の単位で数えた。

●・・・・・・・



■ムー大陸・・・・・・・1.3万年前に太平洋に有ったと言われる幻の大陸。其の一部が今のポリネシア諸島に残るとも
見られている。戦前に英国のチャーチワード大佐が粘土板を解読してこの説を発表した。




メキシコ・・・・・・・メキシコは火山を囲む湖に出来た町である。BC1500〜BC100年にオルメカ文明が石の人頭
像や力士像を残した。また、BC100〜750年にティティオワカン文明が巨石人像を残し、ケツアコアトルと言う水を支
配する蛇(水神・農耕神)を祭る神殿を造った。ケツアコアトルとは、「神々が生まれる場所」と言う意味がある。

またメキシコの北部に位置するティティオワカンにはピラミッドが造られ、当時20万人が暮した。今でも民博の前では
雨乞いの儀式をする。高い柱を立てて、其処に縄を巻きつけて、巻きつけた縄を使って4人が舞い降りる。メキシコは
湖に出来た町であり、水神を祭り、雨乞いをした。

3c頃にはチャルチートリチェと言う巨大な水の女神が造られ、雨の神・トラロックが祭られた。今「トラロックの楽園」と
言われる所は神官の部屋だった。其処にはトウモロコシが描かれている。トウモロコシはBC4000年から栽培され、
粉にして主食とする。今でも一番人気があるのはタコスとして食べる事である。

メキシコにはまた14c〜16cのものと言われる「太陽の石」が残された。此れは太陽と4つの心臓、其の周りに20の月
を配置した直径3.6m、重さ24tの石のカレンダーであり、太陽と大地の恵みに生贄を捧げるために使われたと言わ
れる。

1300〜1521年にアステカ帝国が出来て、其の中央にテンプルマヨール神殿を残したが、此処では生贄が行われ
た。1521年にスペインに滅ぼされ、以後300年、スペインに支配されて1821年に独立したものの、白人の支配が続
いた。其処で混血のメスティーソと言われる人々により1910年に革命が起こって真の独立となった。

此れがメキシコ3500年史である(05/10/31NHK総合TVより引用)。




▲モヒトリ・・・・・・モヒトリとは水面(みなも)で日を貰う事、または日を採る行為であり、やがてモンド(主水)と言う職種に
なった。古にはヒジリの主務であり、後には太陽観測の場の水平・水準器を司る役職名となったが、その後の延喜時
代には氷室が畿内だけで数百箇所に及び、中でも山城の国にはその大半が有った。

この時代はモヒトリが「氷室守り」を兼ね、やがて江戸時代には利水・水利役人の世襲的な役職名に変化した。其の例
が、テレビで藤田まことがドラマで演じる「中村主水」だが、この種の姓には水守((水森)と言う字に変化した苗字もあ
る。



■薬師如来・・・・・・薬や目の神とされているが、本来は暦・方位の神(少彦名命)であった(ヒジリの同項、または「12
神将」を参照)。

●倭コヨミ・・・・・・・和暦を参照。

大和三山・・・・・・・大和三山とは奈良南部の畝傍山、耳成山、天の香具山の事であり、その美しい山容から万葉
風に、或いは三角関係の歴史文学として叙事詩的に語り継がれて来た。またこの大和三山と藤原京の位置関係が、
ピタゴラスの定理で説明できる。

三平方の定理にも色々あるが、何れもそれらが此処では組み合わされている事が既に発表されている。ただ此の三
山はピタゴラスが造ったのではなくて、彼が生まれる前から有った所です。しかも其れらが単に寸法比に配置されてい
るだけではなく、日の出入り方位に設定されていた。

では何故其処までしたのか、と言えば藤原京が出来る以前から日本人にとって如何に太陽観測が国の大事であった
かが判明して来ようと言うものです。







黄泉の国とは夜見の国の事・・・・・・・一つの太陽を天のシンボルとして暦法観測をして来たのが日高見の国、日
いずる国、扶桑の国、和の国の日本でした。だが其れは日本や北半球の温暖な地域では通用するが熱砂の国では通
らない。砂漠では太陽が全てを焼き尽くす悪魔であって決して神とは認められなかった。

其れに対して砂漠の月は熱い夜を冷やし、夜道を照らしてくれる有り難い存在であり、まさに神であった。星もまた遊牧
の民や航海民にとって夜道を照らし、或いは天の星が輝いて星座を描き、行く先を正しく導いてくれる案内の神でした。
だから大陸では太陽が照りつける昼間ではなくてケモノたちと共に夜間行動で暮らした。

従って星月を見て神とし、それらを観測して暦としたのです。其処でこうした地域や大陸の諸国の事を「夜見の国」と言
い、漢字が渡来してから渡来人が「黄泉の国」と書いたため、今では日本人が黄昏の先にある西方を浄土として誤解
し、しかも「あの世の事」と混同している。


○●◎◇◆□■△▲▽▼☆★


●・・・・・・・



立夏・・・・・・・5月の5(04年)〜6(03年)は「こどもの日」、端午の節句。3/3の「桃の節句」が女子の祭りである
のに対してこの日は男子の祭りとなっている。ただこの「子供の日」は毎年五日となっている。

子供の日はまた立夏と重なる例が多いが、立夏は太陽太陽黄径が45°になる方位なので、カレンダーで固定した日
ではなくて、5/5〜6の間を前後する事になります。因みに立夏は、04年と5年は5/5であり、02年と3年は5/6で
した。

また、「端午の節句」と言う場合は旧暦行事であり、2004年の場合、5/5は旧3/17であり、満月とも重なり、この日
の未明が皆既月食だった。それに対して、05年5/5は旧3/27になり、また04年は旧3/17、其れに対して03年
は旧4/5でした。

序でながら言えば、端午とは一日の場合の午前と午後、一年の場合は前半と後半部との境界点であり、其れを時刻で
は正午と言い、暦では端午としたものでした。一年を陰陽関係として見た場合、夏を陽とすれば冬は陰であり、夏至を
陽極とすれば冬至は陰極になります(「土用」を参照)。

現在の日本の暦で「端午の節句」は旧暦の三月か四月ですが、明治までの日本と今の韓国の旧暦の「端午の節句」
は、五月中気、つまり西暦では丁度夏至の頃になります。つまり其れが本来の端午であり、陽の極点を意味した。

また古来、陽は男子、陰を女子と見て来ましたので、其処から端午が単なる「子ども」ではなくて男子の祝日となって来
たのです。

立春・・・・・・・2/3日の節分の翌日が立春である。節分は旧暦の年末頃になり、西暦でも大寒の末日であり、従っ
て此の頃が一番寒い時期です。ですから年と時節を分けると言う意味で節分と言い、翌日を立春と言う。また其の逆
に、立春と対極の立秋(8/7)頃が一番暑くなります。

太陽の暦方位では冬至と夏至が両極に当たります。暦の上では冬至と夏至が陰陽の極ですが、実際の季節感はタイ
ムラグで現れて立春と立秋とが季節・気温の変わり目となります。方位のピークに季節や体感温度がピークにはなら
ず、略1〜1.5ヶ月遅れる。此れは月がクッションの役割をしているためです。

よって月の盆・正月が立秋と立春の頃に略重なる。従って月の国のシナでは旧暦の正月(春節)を立春頃に迎え、また
逆の立秋の頃に旧・七夕、そして旧盆をする。唐風は無論の事、平安から江戸期の和風もこうした月の暦に馴染んで
来ました。

◆立春・・・・・・・・暦上の立春は太陽の黄径315°に当たり、冬至からは45°離れているので方位としては丑寅であ
る。この頃の新月、または満月の日が旧暦(陰陽暦)の正月になる。正月と言う以上は月の祭りであり月の年始です。
つまり立春の前夜祭が旧暦の晦日になる場合が多いので一応此れを節分と言う。

因みに旧暦の薮入りはこの後になるので古来、盆正月には連休となり、日本列島では国民の大移動が繰り広げられ
ました。所で京都を中心に方位を見れば、鬼門と裏鬼門に山形と鹿児島が位置する。

此れを霊的に見れば、この時期に両者の間でエネルギーの交換作用、即ち大きな浄化作用が効果的に果たされるの
で、此れも節分と言う行事の境目の効能でした。だが今は、其れを西暦の元日にしているので祓いの効果も半減で
す。明治以後の日本政府は江戸時代とは何から何まで逆を行うようになりました。

例えば国家の基本とする暦法を見ても方位に基づいた旧暦を廃して太陽暦と称する恒星暦に改暦した。此れが文明
開化と脱亜入欧の実体であるが、其れは政府が仏教から神道に改宗しただけではなくて、実はカトリック暦に改宗・隷
属したのです。

このため現代社会は何事もモノカネ数字主義となりましたが、其れは文明の発展に見えて実は大変危険な事なので、
其の弊害からカオスに嵌らないためにも数値化の誤魔化しを見抜く目を培い、更に本来の和暦とか暦法の原点を見直
すべきです。例えば24節気なども数字で理解するものではなく、昔から円環で見て来ました。

天体も大自然も数字で一直線に進むのではなくて円環であるからです(「二十四節気」、「方位と月日」、「土用」を参
照)。

立秋・・・・・・・8/7〜8日頃。上記の理由から七夕や旧盆や月遅れ盆が此の頃になり、夏の暑さを祓う様に台風
がやって来ます。残暑を払って秋風が立ちます(「土用」を参照)。

立冬・・・・・・・暦の立冬は11/7頃で紅葉の季節(「土用」を参照)。方位では戌亥・乾。








暦法・・・・・・・暦法の第一は人々の合意の形成が必要であり、道理が通るものでなければならない。分かりやすく、
しかも長年の使用に耐えなければならない。一部の専門家がレンズや機器で観測して勝手に決めても無意味なので
す。更にその後、「前のは間違っていたから改正します」と言うような事が繰り返されれば文化破壊になってしまう。

ですから最初から正しいものが求められたし、しかも保守的でなければならない。暦法には基本的に日暦、月読み、星
のカレンダーの3種があるが、何れも太陽を巡る地球の公転周期に方位で割って摺り合わせたものである。今は数字
式だが、本来は方位が基本でした。

暦法と言うものは狭い視点でも算術を使えば片が付くと言うような代物ではなくて、長期的な観測によるノウハウと記録
の集積が要件となる。取り分け太陽は四季により日々一定の差で違う角度に出没する。つまり、日の出入りの位置が
ズレて行く。其の太陽の方位を追うためには決まった位置から一定の尺度で定点観測しなくては分からない。

其のパターンが認識できれば、太陽こそ何万年も不易の法則である事を人に気付かせてくれる。だが西洋近代化社会
は太陽の方位を軽視して星や月を見たり、レンズや算術に頼る事を先端科学だと錯覚していた。其れではホントの暦
法を守る事も、新たに作る事も出来はしない。

従って歴史上の改暦の殆どは誤魔化しか、または政治的な道具にされた。











惑星・・・・・地球軌道の内にある水星、金星の内惑星と地球の外側の外惑星があり、合わせて10ヶある(星ヨミの
「外がい惑星」を参照)が、もっと有るとも言われている。惑星は略黄道に沿って楕円軌道を巡行し、時々逆行する(地上
観測では其のように見える)。このため人を惑わすので惑星と言う(遊星とも)。

和暦・・・・・・・わこよみ。ワレキ。普通は「旧暦」を言い、旧暦とは太陽太陰(今のは天保)暦と理解されている。だ
が此処では異説として大和言葉や大和歌と同様の意味で大和コヨミとし、大和朝廷以前に太陽暦があったと推定して
其れを解説する(事典の「和暦」、「暦法の渡来」を参照)。

無論歴史家は古代にその様な和暦が存在したとは認めないが、別紙の「神々の歳時記」で実証している通り、各地の
遷宮の跡を辿り、或いは古墳の向きが被葬者の命日であると分かれば、各種の旧暦以外に、朝野の祭り事の基本と
なったこの種の暦法が有ったと推定する外はない。

つまり渡来した旧暦は農事コヨミとして使われたが、和暦は公式祭事用の方位コヨミとして古来使われて来た。だがそ
うは言っても現在では此れは在野の仮説であって通説でも定説でもない。寧ろ一般論としては、「其れまで我国には暦
法がなく、欽明天皇の時代に大陸から暦法が渡来して持統天皇12年に其れを採用した」と言うのが定説である。

仏教も稲作も漢字も暦法も何でも渡来したものとする固定観念と舶来史観によって、旧暦一般の文献上の事実を拾い
上げて各種の暦法の由来と和暦の特質を解説するのが今の定説になった。ただそうして暦法伝来の事実を述べては
いても、「和暦が大化の改新からスタートした」と断定する事は出来ない。

何故なら日本には記紀以外に古書やウエツフミなどの優れた文献が有る。暦に関するそうした古記録がありながら、
其の研究が真剣になされず、理解もできないために明治以来、それらをニセ書扱いして埋没させて来た。その他の関
連記録がまだ見つからないものの、我国には暦がなかったとするのは早計である。

寧ろ、大陸から暦法が渡来するまでに既に確固たる和暦が有ったと推定すべきである。と言うのは、其れまでの倭に
暦法の合意がなかったなら社会生活上の約束も、集会、祭り、納税さえも存在し得ない「楽園」だったと判断しなければ
ならないからです。

楽園があったとは証明し得ない筈ですから暦法が関与したと看做す必要が有ります。事実、有史以前から日本には多
くの国があり、其の首長を葬った所が古墳である。此れは世界でも最大規模の古墳群です。古墳の全数が実に20万
基を超える。其の古墳から出土する銅鏡は単なるミラーではなくて夜空を観測する星座盤であり、方位盤でした。

しかも其れを昼間に使うのは暦盤として、或いは方位盤と測量器と水準器・垂直器を兼ねていた。このように一物多機
能の優れもののため神器(鏡を参照)と言われたのです。だが其の鏡の争奪と破砕、つまり暦法支配の争奪史が日本
の王統史でした。日本は武力制圧による支配ではなくて暦法争奪の歴史を重ねた。

つまり改暦によって、前文化破壊と抹殺の祭り事をして来ました(タラシを参照)。所が此れまでの史家がコヨミや鏡の
意味さえ解読できずに暦法を否定するため無理な説明になっていた。さて暦法があった事を記録として残したのが記
紀であり、其れには正確な暦日が記載されている。

現代人にも通じる言語で記述し、しかも干支まで正確に一々付記した歴史書は世界でも例がない。と見るならば、和暦
の歴史は意外に古いと言えよう。従って日本国の起源が大化の改新からであり、暦法も其処からスタートしたと言う定
説こそ問題である。こうなったのは戦後にGHQが其れまでの皇国史観を全否定した結果である。

腰砕けになった歴史家はGHQに反論出来なかった。いや寧ろ諸手を挙げて皇国史観撲滅に大賛成したのだろうが、
其れまでの日本が暦法のない無税の楽園だったと主張するなら、其の辺りの歴史をもっとGHQに尋ねて頂きたいもの
である(事典の「和暦」も参照)。














○●◎◇◆□■△▲▽▼☆★

太古より、日の出入り角度は不変である。此れを「万古不易」と言う。よって太陽を時空の神として万年暦としたのが
真の太陽暦である。

マトメ ・・・ ・・・ 此の円暦に照らして「日知り事典」や「神々の歳時記」を見れば、日本文化の原点や祭り事の本
質が見えて来るでしょうし、本質が見えれば、其れとは別の祭りが偽物と判明します。其れが譬え「政」とか大祭と称し
ていようとも、本質・本筋の方式から外れる祭りであれば何れも「偽祭り」である事が暴露する。

従って円暦は「鬼の目」である。例えば明治以降、日本は都を京都から東京に遷都した。其れが新時代の幕開けであ
り、進歩発展であるかのように装った。遷都ばかりか其の後の天皇家の御陵も円暦の方式とは違う便宜式で行われた
結果、日本は日清日露と戦い、更に大東亜戦争を始めて大敗した。

大きな犠牲を払った事実に比べて、果たして「大きな幸福」をどれだけ得ただろうか。のみならず、大変深刻な現代にし
ているのではないか。所で現代人は屡、「地獄の沙汰も金次第」と言う言葉を使う。浮世では其れが常識としても、地獄
の話をするのは飛躍である。

仮に地獄で実証されるとしても其れを今証明できない以上、此れは何の根拠もない俗説と分かる。其れに比べて円暦
は正に「地獄の沙汰」の方式・方法論である。例えば円暦の方式とは違った祭りを行っていれば、決して神が降臨する
事がないし、また先祖の蘇りもなく、単に「銭集め」を続ける便宜式でしかない事が暴露する訳です。

その事は日本の歴史を見ても明確に判断できよう。つまり、明治以降の祭り事の関係者たちが、「神の出る幕を閉ざし
て俗人が支配する世にする」ために、「神が出ないように」し向け、封じ込めて来た結果が今の方便社会なのです(歳時
記についての具体例は「神々の歳時記」を参照)。


・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★


■此れは仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本文化の原理です。其の
具体例を公開したのが別紙の「神々の歳時記」です。

●別紙の「各種暦」、並びに「日知り事典」や別紙の「神々の歳時記」の各項のご理解には「366円暦」との照合が必要
です。もし手元に円暦がない場合に其の日の円暦方位を算出するには、固有の月日について、「古墳の方位」や別紙
の「月の暦」から「回bO01〜366」を照合下さい。

そうすれば例えば冬至(12/22)はbO01、或いは夏至なら6/22=bP83と判明します。其れに360/366を掛
けますと冬至は0°、夏至は180°と算出できます。同様にして例えば2/6の角度を求める場合は、046×360/3
66=約45°25と算出出来ます。

■上記の通り、366/360の比率で冬至を基準にします。現行月日を其の366方位に換算して真北からの角度を算定す
る事も可能ですが、先の「日読み1」にも図示して有りますのでご参照下さい。また円暦の実物をご希望の方は、「メー
ルフォーム」または掲示板から当会とコンタクトを取って下さい。

以下、次ページへ続く。
次は・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■●◎◇◆□■△▲▽▼☆★

または
トップへ
トップへ
戻る
戻る


パテント・著作権は本会に属します。        「鬼の会」