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日知り  前文 1



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   1.前書き     2.本物を見る目  
        3.多重円環の思想     4.「円系図」と「円暦」発表までの経緯      
             5.洋風化が進歩だったのか。     6.文化とは何か
 


●ページの概要・・・・・・・此処では太陽を中心に祭って来た幾千年もの世界観を語り伝え、また日本から少し横道に逸
れて分化して行った他の民族も対比して論じます。では先ず明治以後のインチキ政治、経済、科学とインチキ学問が
出来た経緯を述べて、続きは「纏め」で、今抱える諸問題の本質とかイラク問題の根源と其の対処法を述べます。



1.初めに

・・・・・・・・貴方がシンデレラや卑弥呼にはなれなくても・・・・・・本書を読めば、ヒジリの仲間です。

ヒジリは「日知り」の事・・・・・・・・・・・・ともあれ皆様、こんなお堅い話のページに良くぞいらっしゃいました。でも本書
の中身はキリスト教の聖書と違い、皆様と同じ、人間の書いたものです。特に筆者などは作り上げられたイメージの「聖
人」とは違って、只の俗人ですから、どうぞご安心?下さい。けれども視点だけは俗人と違う。

例えば、人の評価や物の大きさに捉われずに古今を対比して見た時、其処に色んなヒントが有ります。事故や苦難に
遭った時とか、在来の科学で問題を打開できない時、或いは知識偏重の教科書や在来のマニュアルが全く役に立たな
いと分かった時に、此のヒジリの道理を知れば忽ち道が開けるでしょう。

ただ、もし「古今を対比して見たい」としても、従来から古代の情報や解説が画一的なために役に立たず、従って今まで
かかって謎を増やしてしまいました。特に世間に出回っている宗教や学問、例えば考古学や歴史学は誤解と偏見で満
ちた学説が殆どですから、謎の解明が何一つ不能でした。

其処で今回は先ず古い原点からつぶさに解説します。其の前に一言すれば、ヒジリとは日知り、つまり太陽を知る者で
あり、同時に霊(ひ)を悟った者の事でした。それなら今の「聖職者」とか歴史家、天文学者とどう違うのかと言えば比較
になりません。因みに先の聖書は「日知り書き」とも読めるが、此れは多分翻訳ミスである。

何故ならあれだけの分厚いバイブルの中で、「太陽」に関しては殆ど書いてないからです。その意味では本書が実は
「真の聖書である」と言えます。とすれば少し責任重大で緊張します。

とは言っても本書は古来、朝な夕なにオテントサマを拝んで来た日本人の生き方を独断と偏見でランダム(手当り次
第)に書き並べた程度のものです。従って今の天文学や常識とはやや懸離れた見解があるのでご注意下さい。時代と
共に言葉の元の意味も変化しますから、此処では特に本来の意味とは違って来た「誤解・常識」を抽出して解説した。

其の点でやや主観的と見られる箇所もあるでしょうが、其れは渡来文明によって汚染されて本分を見失ったり、現代物
質文明、即ち科学万能信仰に汚染された度合いによるものです。古の文化は物質偏重ではなくて精神重視でありまし
た。今の常識は物質科学やモノカネ主義ですが、此れは流行性の価値観ですから視野が狭いし歴史が浅い。

科学の進歩、と言って見た所で機械モノを別とすれば歴史的に裏打された実証的なものではなくて一時の仮説に過ぎ
ません。ですから其れよりも此処では一万年の歴史に裏打され、根付いていた古文化をコト知り・日知りが敢えてモノコ
トを見直してコト分け、コト解き、コト説い(語り分け)て見たので、一部でも「聞き分け」て頂ければ幸いである。

何れにせよ本書は太陽信仰を中心とした古文化と暮らしの解説書であるが、大自然には日月星がある中で、特に今
の天下ではお日様よりも月や星を神と崇める民族のほうが多いので、左様な黄泉(夜見)の解説や渡来文明の弊害に
ついても付け加えた。

特に現今では天文学と言えば「星空」の事と誤解して此れに偏重し、宇宙の果てまで詳しく語る空想科学ドラマのような
カタリが多数を占める時代ですが、大宇宙の星屑が各個人に関わる事は一生かかっても殆ど有りませんので、そんな
カタリは一切無用です。寧ろ毎日直接大きな影響を受け、一生関わるのが太陽です。

太陽は昼の世界の独裁者として圧倒的に大きな存在であり、其れに対して地球や人類などは太陽の一部の微塵ほど
の存在です。しかも毎日私たちを天から見下ろして一番強く影響を与え、直接支配しているのですからどうしようも有り
ません。所が現代人はお日様を、「出て当たり前のもの」として無視している。

だが「有って当たり前」と思ったり無視していれば色んな問題が起こって来ます。今の世界が様々な形で混沌とし、色ん
な大問題を抱えて最早打開不能の状態に陥っているのも太陽を無視し、殊更逆らって来たツケである。

此れは最大の天主(天守)であるオテントサマがこの世を支配し、この世のサイクルや暦を牛耳っているのに逆らい続
けた結果への警告と気づけば、何なく解決する事が多い。太陽は物体として巨大ですが、見落としてならないのは宇宙
全体が生き物である点です。つまり太陽には巨大な心(強い意志)がある。

物質主義から見れば太陽は天空の紅一点に過ぎないので無視し勝ちでしょうが、見かけは小さいが巨大な普遍の愛と
恒常の心と熱い心があると思っても左程大きな間違いではない。そうした事から特に世界の中でも日本人は昔から世
界を照らす中心である太陽を貴び、自ら「太陽の子」として、日子や「彦」と言う名前を付けて来た民族です。

ですから昔から日本人はツベコベ言わずに文句なしにお天道様を恐れ崇あがめて来たのですが、其の日本人が自らの由
来と本質を忘れて渡来風に酔った結果、其の質の低下が甚だしくなった。とすれば問題山積するのも当然である。今
は電気が有るから光には不自由しないと言う人でも、以上の理由からお日様には感謝したほうが良い。

古代の大文明も太陽崇拝の時代は栄え、他の星を見るようになるに連れて衰亡している。逆に言うなら、洋式の学理
では古代遺跡の謎を解けないのみならず幾多の文明を星の争いで破壊した。其れに対して昔の日本の特に「太陽の
祭り」が分かれば古代遺跡の謎が殆ど解明できる事を逐一明かして行く。

そうした点にも触れながら最後に如何に日本人が太陽中心の祭りを展開し、オテントサマのある方位に従って祭りを続
けて来たかの実例を集めて別紙に「神々の歳時記」として綴った。

●固定観念を外す作業・・・・・・此の「日知り事典」に並べた程度の話は昔の人なら誰でも常識でしたが、マスプロ教育
で大卒が増えた分だけ今の日本ではヒジリが異文化の目で見られるに違いない。其れは白人社会に目も頭も血もカラ
ダも汚染されたからである。よって此れから述べる古代太陽文化について今は悉く歪んで解釈され、誤解されている。

なので其処から先ず正す作業から始めなければならない。例えば本来の「太陽信仰とは何か」、と言う一点を考えても
物理科学的な今の常識とは別の、古の知恵が有れば現代社会に多少とも寄与できると信ずる。例えば今は情報化社
です。ですが、「多い事が豊かである」とは限らない。

今は広告か何か分からない無関係な情報が氾濫する中からホントに必要なものを探し出すのが中々大変です。なの
で、便利に見えて実は弊害である。どうでも良い一方的で画一的な知識や偽情報、或いは一時しか通用しない流行学
説や無用な宣伝ばかり氾濫していては、多忙なこの時代にとって迷惑です。

実際問題として何かを探したい、調べたい、真実を知りたい、「正しく判断したい」と思った場合でも色々邪魔されていま
すので今の世の中、益々おかしくなって当然です。其れを避けるには大量の無料の情報よりも、良質な情報を選べば
良いかも知れないが、其れさえ探し出すのが難しい。

其処で何かの法則性を知って、後は自分で判断する事が出来れば一番楽です。其の点から言えば足元にも沢山あり
ます。すっかり忘れかけた古の日本文化の中に、この困った社会を良くする対策や、より良い知恵や道理も価値基準
も色々示されているからです。

とすれば、街中のゴミの山から多くの情報を拾い集めたりパソコンから引っ張り込むよりも、目の前に居るお年寄りや
足元にある、貴い経験と真実の方式から学んだほうが賢明ではないか。今の世間ではインチキ政治が横行し、ニセブ
ランド、ニセ温泉だけではなく、偽物が本物以上に大威張りしていますから言葉も其の例外では有りません。

今の「太陽暦」や神々も同様です。例えば太陽信仰について見ても、「玉串の祭り」で後述する通り、真実が日本から消
えてしまった。また、世界各国の国旗は凡そ三種あって日月星の何れかを旗印にして来た。中には縦縞・横縞のデザ
インもあるが、其れも月か星の変形(シンボル)を意味する。

このように、世界の民族は古来、日月星の何れかを神として選んで暦とし、公然とした其の動き(事実)に其の天下の
人々が合意を形成して従っていました。一つの天の下で交互に約束を交わし、其の節目を守る政府に税金を払って来
ました。

所が日の丸の下で税金を取っている筈の今の日本政府は太陽でも日本の先祖祭りでもなくて、「政教分離」と言うGH
Q指令に降参して以来、平気でカトリックの暦法を使ってマツリゴトをしています。此れではインチキです。政府は太陽を
祭らないし、伊勢神宮でも他の神社でも太陽の祭りはしていない(「太陽信仰」を参照)。

無論、政治が宗教を否定し分離しているのに此の有様(異教に隷属)です。歴史的に見ても日本は本来の太陽を捨て
て大陸の月の暦への改暦を繰り返し、更に今では「政教分離」と言いながら実は星祭りのカトリック教の手下になって
彼のイデオロギー(異教性)の元でニセ(米国のための)のマツリゴトをしているのです。

ですから時代を通じて日本で役に立つ、真の知恵や本物だけを探し出し、見分ける知性が必要になっています。しかし
例えば、「聖」について見ても、調べようにも欧米的な情報過多の中で遮られ、日本の事実が少なく、よって正解を探し
出せないのが今の実態です。

繰り返せば、「聖」とは「日知り」であり、同時に「霊知り」の事であり、霊(ひ)とは先祖であり、同時に自分の魂の実相を
知るものです。其処で此処では其の「日・霊」を併せて述べる。と同時に本書は、複雑怪奇で多種雑多な情報を分析す
る手段として、円相と言うパターンを使って選り分け、物事の核心部を突き止める方式を提示してコト説いて行きます。

そうした点では本書のまたの名を「ホンモノ事典」と言っても良い。但し、此れは言うまでも無いが学校の教科書ではな
い。従って教科書とは違う解釈をしている部分が多いし学校では教えない事柄も多い。従って塾や学校で教えられた事
は先ずしっかり勉強して頂いて、其のテストがあれば教えられた通りの回答を書くべきです。

大学生の場合も、例えば「日知り事典」の解釈でゼミに臨んだり卒論を書けばアウトです。また目出度く卒業して社会人
となった場合は、其の社会の常識に従って下さい。常識が分かってから後に、常識とは違う此のヒジリの解釈を参考に
して幅のある豊かな観点に立った人生にして頂くほうが宜しいかと思う。

●さて本物が何処にあるのか。其れは日本中、至る所にある。けれども其れを理解できなければ「猫に小判」です。例
えば、かつて大和三山の配置が「ピタゴラスの三平方の定理で作られていた」と報道され、其れが大きな関心を呼びま
した。

けれども、此処が仮に古代太陽観測の場であったとしても、果たして何の目的で其処まで多大な事業をする必要があ
ったのか、と言う事になると目的が見えなくなり、其れと共に現代人の関心が太陽からも古代数理からも離れてしまっ
た。此れでは折角、足元にある宝物が「持ち腐れ」です。

また近年は各地でストーンサークルや岩倉、或いは古代遺跡の発見が相次いで、何れも明るいニュースとなりました。
でも考古学や史学では残念ながらその意味を正しく理解できなかった。だから核心部に迫る事も出来ずに謎の遺跡と
して放置するなら兎も角、発掘して破壊した。

其れでも何も分からないから「詰まらない遺跡だ」と誤解し、「破壊」してもっと「詰まらない都市」に変えてしまったので
す。或いは考古学の発掘において何かが出土するたびに学者は「古代祭祀に使われたもの」と解説して来た。

だが祭りが有ったとするなら其の神が果たして龍や蛇なのか、狐なのか、それともご神木や先祖だったのか。其れさえ
特定できなければ其処に祭りが有った、とは言えないのです。この様に今の学問では本当の意味・目的を解説できる
人がないにも関わらず、曖昧なままで発掘が繰り返された。

遺跡を破壊した後で、其処には取り合えず箱物行政によって資料館や会館が建てられて終わってしまう。しかも其処に
は決まって歴史にも遺跡にも無関心で無知なお役人が腰掛で天下りして来るだけで直ぐに閑古鳥が鳴く所となり、コス
トを掛けただけで「村おこし」にさえ役立たなかった。

そして僅かに、趣味の同好会が出来る程度であり、初めのエネルギーも結局は線香花火に終わっていた。そうしない
ために、古墳や古代遺跡をどの様に理解するか。其のノウハウの一助として先のヒジリ事典を書いた。其の序に本書
をあんまり堅苦しくしないために余談も挟んだ。

そうすると自動的に、昔に比べてこの世をすっかりおかしくしている輩や国益に反する行為をしている所が浮き上がっ
て来るので、其れを事実として幾つか並べた所、自動的に批判的な内容になったが、野良犬の遠吠えと思って捨て置
いて下さい。


■2.本物を見る目

「近代化」によって日本人は大量の物や商品を手に入れる事になりました。特に現代社会では何処にでもバーゲンセ
ールがあり、「百均」も増えた。だから「豊かな社会だ」と言われると黙るしかない。しかし其の実態はどうかを考えて下
さい。何処のスーパーに行っても、年中同じ物が山積みされているのが本当に豊かさなのでしょうか。

何処の公園に行ってもチューリップかハーブが咲いているだけと言うのは豊かさではなくて不自然で貧しい事ではない
のか。其れに比べて昔は例えば、家の周りを一回りすれば10分ほどで四季の草花が採れたり、色んなキノコがザル
に一杯になりました。天然の冷蔵庫である川や海に行けば、誰もが何時でも新鮮な魚貝類を色々採れたのです。

所が今は何処にもそうした本物の豊かさがない。スーパーの売り場には聞きなれないカタカナの名前の切り花とか、何
処へ行ってもバナナとリンゴなど、年中似たものしか並べていない。とすれば此れも貧しい事です。私たちはチューリッ
プとドッグフードだけで一生を過ごしたくはないと思わなければ駄目です。

また市役所には職員が一杯いるのですが、市民は盥回しされるだけで簡単な用件でも中々埒が明きません。或いは
寺社の数より大病院や歯科の方が多くなりましたが誰もが健康になったと言えるでしょうか。其れに、年賀状を10枚ほ
ど書こう としても簡単では有りません。

譬えパソコンや各種のソフトやプリンターを揃えても、其の使い方を追い掛けるだけに時間をとられる訳です。其の点、
昔はシンプルライフ で豊かさを常に実感できるゆったりした暮しが有りました。だが其れを捨てて、日本人は大量の知
識や商品を安くて早く手に入れる方法を選んで追い求めました。無論、今でも舶来・ブランド志向が強い。

でも大多数が駅弁大学を出て建売住宅に住むようになっただけだ。学校教育で無駄な知識をギッシリと詰め込まれて
大学に入ると、「此れが今の常識だ」とする、何処にでもあるような紋切り型と似非学理の売学を受け売りされました。

そして選挙のたびに各政党は毎回、一見「分かり易い」政治スローガンやキャッチフレーズで訴えたが、何処に其の結
果が出ただろうか。

テレビのCMも分かり易いが、其処にどれ程の真実が有りますか。そうした安上がりの折込情報の中で、大学とか科学
と言うものは例外的に一見して別の存在だった。此処は特に今の問題や命題について真実とか真理を探り、其れを見
える形で実証する所と期待した。だから大多数が大学に行ったが其の期待も裏切られた。

此処では単に無意味な約束事を暗記するか、他説をコピーして受け売りする事と、言いたい放題の無責任な主観論を
売る所となっていた。でも其れが歌謡曲なら許され る。歌ならば、ウソでも良いから分かり易く、歌い易いほうが楽し
。でも科学や大学が「楽しい」歌謡曲で終わっては困るのです(「知識」を参照)。

何れにせよ日本では偽常識を腹一杯刷り込まれただけで当初の目的が果たせなかった。また其の後も多くが学歴や
知識を一生持ち歩いてその人が幸福に なれば救いがありますが、果たして幸福になったのでしょうか。単なるキノコや
一匹(尾)の秋刀魚でも立派に成長して人の口に入れば秋の味覚を提供しているのに、人間は駄目になった。

其れは偽物の情報に汚染されたからである。特に公務員は人一倍の手当てを貰っているのに半人前が増えた。今で
も多くが大学は出たけれど社会の役に立たず、就職さえ出来ずにフリーターやニートでいる大卒が増えた。無論、バー
ゲン時代のこれまでなら其れで済んだ。

大衆社会では「質より量」が善だったからですが、しかしそうした価値観によって実は「悪貨が良貨を駆逐する」ように本
物を駆逐してしまった。本物の政治(「保守」を参照)も文化も、食品も日本からなくなって、食事を簡単に早く済ませるド
ッグフード並みのインスタント食品が増えました。ですから個人は自分で本物を見る目を育てなければなりません。

ニセ温泉くらいならどうと言う事はないが、「健康を害した」と思って病院へ行った結果、健康も体もズタズタにされる例
も増えました。医学も病院も、保険虫と金取り虫の巣食う偽学の砦と化していたのです。ですからブランド品や学歴や
新築の家で自分たちを飾っても、今は皆 さん、イライラしています。

つまり、その人に本物を見る目がなければ、何をどうしても絶えず期待ハズレとなり、欲求だけが高じて不満が満たさ
れない。そのストレスが重なれば当然、不健康となって行きますし、或いは本物の知性がなければ品性がなくなって幸
福を味わう感性も失います。

此れを書いた1、2年後の06年には耐震偽装、07年には食品偽装が各地で暴露した。農水省関係ではミートホープ、赤
福、船場吉兆など、社会保険庁では5000万件の年金記録の内の4割が特定困難と暴露し、各地では救急車の患者を
拒否する病院が散発した。なので07年の漢字が「偽」に代表された。とすれば私たちは恥ずべき世代と言われよう。

何処へ行っても似たモノや商品に囲まれた生活とか、携帯電話の溢れる社会となれば、人々にはもう自分の居場所さ
えなくなる、と言うのでは住み良い社会には到底ならない訳です。其れに気づいた人たちは、モノにはもううんざりし始
めました。温泉も偽物、ブランドも偽物、其れに強度偽装の新築マンションでは満足も安心も有りません。

日本人管理の為、米国で決められた情報を垂れ流す行政、そして役立たない知識を売る教育現場やインチキ学問を
教えた大学は最早崩壊しつつあります。巷に溢れる安物バーゲンの折込み広告でさえ、一度でも客を裏切ればもう信
頼を取り戻せない時代です。

チンピラ集団であるサンケイと日本テレビもライブドアから一発食らったように、大新聞や民放であってもNHKでもゴミ
情報垂れ流し(コピー情報氾濫)を続ければ見向きもされなくなります。戦前までは情報には国を危うくするほどの価値
があった。けれども今は情報も叩き売りの状態です。「情報は只」の「フリーペーパー」の時代です。

だが、そのような折込み程度の無料の情報でも無価値ではない。実際、折込が欲しいから新聞を購読していると言う家
庭も多い。つまり大学やマスコミの権威は下り坂となり、其れよりも実質と言う逆転が見られる。要するに情報は見つけ
方と使い方である。主体はコチラである。相手に振り回されずに選り分けて使う、「物よりコト、ソフト」の時代です。

こうした情報の利用法、其れがチカラとなる。本物の知性が、本物の地場産品や自然食品を見直す時代となって来ま
した。此れなら高額ブランド品を買い漁る趣味とは別の喜びが味わえるでしょう。

無農薬野菜ならば三割くらいは高いように、本物の話であれば広告ばかりの雑誌よりも二倍くらいは割高かも知れな
いが、其処からならブランド品で身を飾る贅沢とは違う別の感動がきっと味わえるでしょう。本物を見る目はスーパーの
店頭には並んでいないし「見た目」による判断力でもない。

其れは、自分の内部に養われて行く心であり、時間を掛けて培う目である(其れを次に述べる)。


■3.多重円環の思想

円相学とは・・・・・・・人は何れ死にます。此の事実を以て、古来人は輪廻・転生を悟り、物事・万物を円環(リング)で
捉え、因果の再生を心得ていました。禍福も再生すると見れば、悪事・犯罪も少なくできた。だが進化論が流行する現
代は逆になった。戦後は特にモノカネ主義で、物だけで判断する人が増えました。

だから例えば、八百屋の店頭に同じようなリンゴが並んでいれば誰でも先ず大きさで比べる事になる。
だが日常生活はリンゴ比べよりも雑多で無数の情報が同時性で等間隔で入って来るので、「情報収集」に苦労は無い
が「判断」には手間取ります。例えば国会中継をテレビで見ていても大きさや目方では何一つ答えを導き出せない。

苦労するのは情報収集よりも寧ろ今は選り分けである。ですから単に「比べて見る」考えでは余り役に立たない。ただ
現在、例外的に直面している問題があった人の場合はどうしても必要なモノだけを優先的に探し出す事になる。でも見
つけた回答が正しいかどうかは別問題です。しかも大抵の場合、人は今「何をすべきか良く分からない」状態にある。

こうした普通の状態のときは正しいモノを選り分ける事さえ困難です。人の考え方には縦横史観の別があり、前者はラ
ンク付け、後者は天秤式である。

特に今の風潮のように、自分の過去を捨てて「前向きだけが善」と言う無責任で偽善的な生き方が美徳とするような如
何わしい時代には、本物を見極める目とか、何が正しいのかを的確に判断する能力が必要です。つまり日常の場合に
は、多くの情報を体系化する目が必要 であり、一つの事でも関連性を知る事が大切です。

其れには先の縦横史観とは別の、筋道を知る事です。法令などの雑多な約束事をたくさん覚えたり、バラバラな事象を
沢山の知識として集積したり、最先端の専門的な知見に進むよりも、其の元の、扇の要を握っていれば良い。其れに
は例えば「日知り・古知り・コト知り」があり、この場合は歴史を学ぶ事と図形で判断する方法とがある。

歴史とは官製の通史・年表暗記ではなくて、 「今日は昨日の続きだから切り離せない」事(因果関係)を悟る術であり、
最も確実な自分の足元の先祖を知る事です。この場合は図形にして下記の円・相で見ます。

・・・・・・円とは言うまでもなく丸い形の事ですが、形だけではなくて動きもある。宇宙の中では太陽も地球も月も丸
い。しかも廻っており、風や海流も一時も止まらず循環しています。人の血液も生きている間は昼夜を問わず廻ってい
ます。自然の営みは言わば仏説の「縁」であり、その中では直線的なものはなく、無論数字もない。

そうした自然界では循環が基本であり、循環が止まって静止したものは従であり、「死に体」ですから年表として静止し
た歴史は既に死んだ歴史と言えます。自然界の生物は「生命」と言う循環過程で連結しています。歴史もまた「今日は
昨日の続き」ですから動いている間に作られ続けています。

つまり万物が渦であり息をしている生物である。だが其れを西洋史観でブツブツ切って分類し、多様な先祖から切り離
して一本道のように丸暗記する歴史は根無しの知識でしかないため、人が認識して役立つ事が少ない。けれども円環
の思想で見れば、過去に起こった事実は歴史として完結した事が分かるので事実として把握する事が出来る。

完全と事実とを知る事が何よりの基本となります。過去は完全なるが故に完結した、のに対して、未来は不完全である
が故に未成立・未完であると分かります。過去と自然界とは完結した存在、即ち円である(「円系図」を参照)。其の点
で、今流行の進化論では文化を誤解して破壊する。

其れよりも自然の摂理と因果の道理が分かれば万象・万物を識別できるし、正しく判断できるでしょう。

ともあれ古人は、自然界の光と影を見てストーンサークルで暦を作り、或いは円形に巡る天体の下に四角四面の家を
建てて周りの景色と四季を重ねてコヨミを確認し、歳時記を編んだ。更に諸の観念を多重円環に五重塔のように一軸
に重ねて、万象を方位で割って物事を判断する目安として来ました。

・・・・・・相を一言で言えば木の木目である。相場や首相と書く場合も「相」の字が使われる通り、「相」は多くの用
語になっています。だが「相」が単に意味する所は「八方の目」、即ち全体の形の様相を意味する。例えば天体の星座
の配置を位相・座相と云い、家の様式を配置から見るのが家相です。

また仏の様を観相と云い、人の相では、眼相、顔相、人相、形相、骨相、険相、手相、足相・・・或いは寝相、病相、死
相、墓相、地相などとグループ化する事も出来よう。現象面では世相、様相、表相、事相、真相、諸相、皮相、実相・・・
があり、印鑑には印相、地質学では岩相もある。

こうした諸相の関係を相関、相似、相生・相性、相克、相対で見る外、その他として、変相、色相、異相、奇相もある。
先の実相とは本質、根本、つまり「種」の事(円系図を参照)であり、其れに対して異相とは、本質とは別の徒花とか、数
字のように実体とは別のバーチャル世界の事(仮想)を言う。

或いは基本とは別の形の虚の表象空間を見て人は此れを異様・異形・異体と言う。所で仏教の「有相無相」と言う場合
は、有象無象(うぞうむぞう)と同様、姿形のあるものと、もたないもの、現象と真理という意味です(有象無象について
はメルマガ「知的道楽」http://www.samue-e.com/より引用)。

「有相」や美形や変相に惑わされない為には直感的に判断できる図形の認識力が必要でしょうが、其れには方位と言
う基準の認識(定見)が肝要であり、その種の能力者として昔は方相士があり、今は例えば円相学が有ります。

円相学は図象学なのか、と言えばそうではない。図形は確かに数字ではないから計算する事もなく、単にある種の
直感で真理を見抜くのに便利ですが、ある部分を専門的に研究する分野の学問や技術ではなく、一瞥して全体像を見
る直感的な方法です。例えば一度でも日本地図を見た人は、倍率の違う別の日本地図を見ても日本地図と分かる。

此処までは誰もがする事ですが、幾ら見比べても分らない場合が多いのも事実です。例えば南北を反転させたら分か
らなくなります。其の点で方位の観点に慣れて来ますと、何の「相」であり図形なのかが即断できる。細かい計算をした
り専門的な知識がなくても、伝統性とか総合性で識別して即断できる特長が有ります。

人は未来に夢や希望を抱く。けれども未来から学ぶ事は出来ません。未来はまだ存在しないからです。其の点、円相
学は要するに古代の基本的な哲理の五行思想や暦法として特に聖王・帝王学とも言われる要諦を学ぶ事になり、或い
は方位の上に多数の事象を多段に重ねて、全体との整合性を認識するので此れを円環の思想とも言う。

ただ日本人は稲作時代から織物を生業とするような長い歴史の過程で、そうした見方を苦手とするようになった。従っ
て今の社会は、物事を円環ではなくて、先に述べた縦横史観で、縦か横かでしか判断しない。例えば縦史観は階級と
かランク付けで価値判断する事。横史観とはソロバン勘定の事である。

次は縦と横で面積を問い、或いは縦糸と横糸で一定の面積の布地に仕上げ、平面の物を立体的に具体化して見せる
文明でした。金像仏や箱物物質文明を作った習性です。或いは一升マスに入れて何杯の米が有るかと言う数量的な
価値観が染み付いた。

中には更に頭の良い人たちが数学的にY軸とX軸とでグラフを描いて微分積分して理解しようとした。だが其れらでは
束になっても迷路に嵌ってしまったのが現代社会です。つまり今抱える問題点は、垂直史観か水平思考(算盤勘定)で
しか考えなかったために其の虚像が矛盾を大きくしたものです。

自然界は全て円であるのに、人類の作った人工的な建物とか縦横の狭い枠の中で考えた為にカオスを作った。「井の
中の蛙」には人類の作った直線的で人工的なモノ、直線的な形と物だけが「真・善・美」に見えたのだろう。従ってそれと
は違う円環の思想は無用とし、仮に「円」を云々する者が有れば「曲学阿世」の曲論を言う曲者と指弾した。

以来、直線的で真っ直ぐな事とか、素直、正直が「善」として賛美されて近代化や偽物のテクノロジーの進歩発展が見
られ、都市には箱物ビルが乱立する事となった。けれどもこのガラスのオモチャのような近代文明を支えて来たのは、
科学や数学の力と言うよりも、例えばネジと言う曲がった小さな小人があったからです。

ネジが人の目の届かない所で全てを下支えして来たからであり、また自然界も自らが長い間かかって築き上げた資源
を犠牲にして人為的な玩具の直線文明を支えてくれたお陰でした。其れに対して無知な人々はビルの谷間で今も「人
類の進化」と言う思い上がった念仏歌を大らかに斉唱しているが、其れは事実とは裏腹なのです。

電化を支える電波や電子も決して真っ直ぐには飛んでいない(必ずスピンしている)。原子核も宇宙も円環構造です。
この様に、自然界には真っ直ぐな物や数字が通用する部分はなく、従って先のランク付け縦横史観では多くの矛盾を
生み、問題を拡大して破壊の道を進んでしまう。

と言っても決して杞憂の弁ではなくて、誰でも目の前で確認できるゴミ問題を見れは分かる筈です。大量のゴミを出す
直線科学の文明はスクラップ・アンド・ビルドの破壊の文明であって、進歩や進化のバロメーターではなかった。

其処を凝視すれば、其れらは戦争のためのスピードだけを要求された軍事テクノロジーや便利さだけを求めた浪費文
明の利器では有っても、リサイクルする知恵のない、お粗末さを暴露した無能な文明だった・・・・と気付くだろう。

環境破壊の真犯人がこうした近代化や愚かな西洋物質文明にあるとは云うものの、此処では別の視点をもう一点、宣
べて置く。破壊者の主体は寧ろ自然界なのだ。と言うのは、長い間かかって築き上げた自然循環の理(仕組み)にそぐ
わない人工物(純物質)・直線的な箱物、新製品などは何れ自然界から淘汰・排除される宿命にある。

人為的な構造の機械とか都市やビルを自然界は許さない。其れを日本人は「日の下に新しきモノなし」と戒めて来た。
従って、そうした不自然な物は自然界が地震や噴火で瞬時に抹殺し、或いは時間をかけて必ず排除し、自滅させる掟
がある事実を今の人類は悟るべきだ。

ま、結論は同じ所に落ち着くものの、一端加工し、消費したものを自然界に返すには従来の物質科学では無能であ
る。近代的と言う部分的で一面的な専門諸学で如何様に分断し、分類しようとも到底理解不能です。其処で此れから
は円観で、もっと総合的に判断して全体の調和と秩序を計る文化を取り戻す智恵と工夫が要ります。

其の為には先ず、数字や直線的な科学知識に期待しても最早解決不能である事に我々自身が日々気付く事が第一で
しょう。そして第二には「物の豊かさ」と便利さを求めた従来の金満的な至福観とは別の、新鮮な感動を味わって見る
事だ。

そのため当会は、最善の方策としてこの円相、即ち古いにしえの多重・円環の思想を一般社会にも知らせて行こうと決意
した。・・・・・・円相については日知り事典の同項を、円相学会については、別紙・末の「鬼の会」を参照。 




●4.「円系図」「円暦」発表までの経緯    以下、次ページへ続く ・・・ ・・・ ・・・

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